PIOピアノ雑記帳

ピアノ、クラシック音楽関連の話題を主とした雑記帳blogです。

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第2回【アフリカ系アメリカ人の民謡~ブルースの誕生】(4月12日放送)

ラジオ講座を聴いての覚え書きです。(ストリーミングはこちら


カルチャーラジオ 芸術その魅力(ラジオ第2 毎週水曜 8:30pm | 再放送 毎週水曜 10:00am)
<シリーズ> アメリカン・ミュージックの系譜 慶応義塾大学教授…大和田俊之


 

ブルースの定義づけ
 形式的には……12小節をひとまとまりとするAB形式で、何度もグルグル繰り返す
 歴史的には……西アフリカから米国に連れてこられた黒人奴隷の労働歌から発生(?)

形式的には、西アフリカの労働歌とブルースは全く似ていない。
「黒人がやってきた音楽実践」という点でつながっているだけ
ブルースについて具体的に語れるのは「どういうメディアに記録されてきたか」という点

1908年に白人によって楽譜化→楽譜の世界でのちょっとしたブーム
 ブルースにまつわる記述は「なんか変な音楽」というものでさえ1880年代になってから
 わずかの間に白人が入ってきている

*最初のブルース録音とされるのは1920年「クレイジーブルース」byメイミー・スミス
 実はAB形式12小節の曲ではない。
 黒人が歌っていて「ブルース」が曲名にあるから←「ブルースという音楽は黒人音楽」
 数万枚売れたことから、レコード会社は黒人コミュニティ特化のレーベルを立ち上げた
 

白人側の先入観・ステレオタイプ

「黒人音楽=簡素な中のノリの良さ」「素朴な中にある躍動感」
→アコースティック・ギターによる男性歌手のカントリー・ブルースを典型と考える
既にエレクトリック・ギターを持って演奏していた黒人歌手が、ボロ着にアコースティック・ギターというスタイルに変更してステージに立つ。「この方が売れるでしょ」

白人と黒人との関係性の中で、ブルースも変容していく
黒人作家ラルフ・エリソンの言葉
「悲劇的でも喜劇的でもあるような抒情を導き出す」
 ストーリーが完結することなく、宙づり状態で解決しないままにグルグル繰り返す
 (=
左手でミを弾き、右手でミ♭を弾く。12小節の繰り返し) 


(このシリーズ第1回の覚え書きby PIO→
(2017年1月~3月のシリーズ「バッハ一族とその音楽」全13回の覚え書きby PIO→

ラジオ講座を聴いての覚え書きです。(ストリーミングはこちら

 第3回【ヨーロッパ系アメリカ人の民謡~カントリーミュージックの誕生】(4月19日放送)
 
カルチャーラジオ 芸術その魅力(ラジオ第2 毎週水曜 8:30pm | 再放送 毎週水曜 10:00am)
<シリーズ> アメリカン・ミュージックの系譜 慶応義塾大学教授…大和田俊之



女性ポップ歌手、テイラー・スウィフト。
ツイッターのフォロワーが、世界で第3位か第4位。
ヒット曲 "You belong with me"(カントリー・ポップ) 
バンジョー、スティールギター、といった楽器がポップス的なサウンドの中に入ってくる。
歴史的に見ると、カントリーミュージックは保守派、共和党と親和性が高い。
ところが今はその性格が弱くなっている。

【歴史】
1.イギリス文化史研究家が、米国アパラチア山脈に英国より古い歌が残っていることを発見
 
フラシス・ ジェームス・チャイルド(米国人)
  『イングリッシュ・アンド・スコティッシュ・バラード』
(1857年)
学問的な本 詩だけ305編 歌い継がれた曲のレパートリー採集、変容の記述

2.反近代主義(「古い英国」への回帰)運動で、アパラチア山脈に籠って音楽採集
セシル・シャープ(英国人)
 『English Folk Songs of the Southern Appalachian』
(1917年)
ノスタルジーがテーマ。学術的ではなく一般に開かれた本(楽譜、ピアノ伴奏譜付き)

3.その後、イギリス文化と見られていたものがアメリカのものとして書き換えられていく
=カントリー・ミュージックの誕生

4.カントリー・ミュージックというフレームワークの誕生
現在のビルボード・チャートの分類
①総合チャート、②ブラックミュージックチャート、③カントリーミュージックチャート
実は、②③の最初の録音のプロデューサーは同一人物。
黒人コミュニティ、地方の白人コミュニティ、という購買層を発見した。

「カントリーミュージック」というフレームワークは第二次大戦後の確立。
それまでは、オールドタイムミュージック、マウンテンミュージック等と呼ばれ
個々バラバラに存在していて、これらを統一するフレームワークは存在しなかった。

ロックンロールの台頭後、
それまで細かく分裂していた音楽が、ナッシュビルに集結し、ここを拠点にまとめられていく。
その過程で保守的に性格を帯びていった。
民謡というカテゴリーで、フォークとカントリーミュージックはかぶっているが、
フォークミュージック=左翼 革新 vs カントリーミュージック=保守
という図式が生まれる。

90年代以降の研究動向
昔から、白人がブルースを、黒人がカントリーを演奏することが多々あったと明らかに。
音楽に沁みついていた政治性が少しずつ剥がれている。
カントリーミュージックは「ダサい」という意識があったが
今は、バンジョーの音色が入るとオーガニックな印象、ポジティブに捉えられている。

第4回【商業音楽の黎明Ⅰ~ニューヨークに誕生した音楽産業とブロードウェイ・ハリウッドの関係】(4月26日放送)

実はいま、GWを利用して自宅を離れておりまして、ネット接続が厳しい状況。。。
ルービンシュタインコンクールの第二次予選が気になるところではありますが、残念ながら、動画視聴はほぼ不可能と判明しました。(TT)
そこで、自宅を離れる前に聞いたラジオ講座の覚え書きを先にアップしておきます。
(ストリーミングはこちら

カルチャーラジオ 芸術その魅力(ラジオ第2 毎週水曜 8:30pm | 再放送 毎週水曜 10:00am)
<シリーズ> アメリカン・ミュージックの系譜  慶応義塾大学教授…大和田俊之



1.旧移民と新移民
・旧移民:17世紀以降 アングロサクソン系、ゲルマン系、スカンジナビア系
  宗教的にはプロテスタント。東海岸から西へ移動。  フロンティア開拓精神。
  政府と無関係に自分の力で家族を守る
・新移民:19世紀後半以降 ロシア(1881年から)、東ヨーロッパ、ユダヤ人
  宗教的にはカトリック、ユダヤ。東海岸の都市にとどまる

2.ティンパンアレイ(ティンパン横丁)
新移民の中から娯楽産業が興る。都市生活労働を終えた時間帯
→娯楽産業に専従する人の出現。NYのブロードウェイ「ティンパン横丁」に集まる
   アップライトピアノの置いてある小さい部屋に集まって曲作りをする
   初めは蔑称としての呼び名。膨大な数の作曲家が「売れる」ことを目指してしのぎを削る。
代表者4名
1.ジェロム カーン 「煙が目にしみる」  ドイツ系 本人はアメリカ生まれ
2.アービン バーリン  ロシア系ユダヤ人  「ホワイトクリスマス」 世界中で最も売れた曲
3.コール ポーター  「ビギンザビギン」
4.リチャード・ロジャース「マイファニーバレンタイン」
音楽形式:32小節AABA方式
 ティンパンアレイで生まれた曲の7〜8割がこの形式=楽曲の標準化
 アメリカではこの時代、さまざまな分野で標準化が進んだ(例:フォード車の大量生産)
 ファクトリーメイドの方がホームメイドより上に位置すると考える価値観
 大量生産大量消費の幕開け

第5回【商業音楽のれい明Ⅱ~ガーシュインの登場と映画・ラジオの関係】(5月3日放送)
カルチャーラジオ 芸術その魅力(ラジオ第2 毎週水曜 8:30pm | 再放送 毎週水曜 10:00am)
<シリーズ> アメリカン・ミュージックの系譜 慶応義塾大学教授…大和田俊之
(ストリーミングはこちら


  
「ミンストレル・ショー」:19世紀に始まった、アメリカ最初の興行的ショー
白人の芸人が顔を黒く塗って黒人のフリをするもの
 (現代の目でみると実に差別的な内容→公民権運動の盛り上がりの中で姿を消す)
これが音楽産業にも影響→音楽産業を支えたユダヤ人作曲家が黒人音楽の模倣をする
ラグ、ジャズ、と呼ばれたアメリカ音楽を作ったのはユダヤ人

<近年の研究によると…>
19世紀から続くミンストレルショーに、ユダヤ人が参入することで、
ユダヤ人は黒人ではなく、白人グループに属することを表明したという側面がある
ユダヤ人が、白人としての地位を確立し、相対的な階級上昇を遂げた

☆ガーシュウィン(ユダヤ系ロシア移民の子)
「スワニー」1919年
語り手はアフリカ系アメリカ人
白人の芸人が黒人の真似をして語るのが前提
スティーブンフォスター(アメリカ音楽の父と呼ばれる)の曲をパロディ化して作曲

「ラプソディインブルー 」1924
ポールホワイトマン楽団(当時はジャズ・バンドとして主流派だった)が、
ガーシュウィンに発注して作らせたもの。
この楽団はシンフォニック・ジャズ(欧州に負けない、洗練されたジャズ)を演奏
第一次大戦後にアメリカの国際的地位向上
→「世界にアメリカ文化を!洗練させた形で聞かせたい!」という時代的欲求
文学なら、メルヴィルの『白鯨』
→「アメリカにシェークスピアに匹敵する作家がいた!」がキャッチコピー

☆歌唱法の変化  マイクの発明が大きな影響を及ぼす
マイク発明前:「ベルカント唱法」訓練をうけた歌手だけが声を届かせられる
マイク発明後:「クルーナー唱法」訓練を受けていなくてもステージに立てる
もともとヨーロッパ起源のものの形が変化していく
オペラ(叙事詩的、壮大)vs ミュージカル(叙情的、リリカル)

ハリウッドでは、ミュージカル映画が一つのジャンルになる
不自然さを正当化するために、男女の関係自体を歌に盛り込んでいく
ティンパンアレイの音楽が、アメリカ文化の一つの到達点を作った
ヨーロッパ音楽(重厚)vs アメリカ音楽(大量生産&大量消費の軽さ、エレガンス)

1939年「オーバーザレインボー」(ジュディ ガーランド)映画『オズの魔法使い』
1935年「チーク トゥ チーク」(フレッド アステア)

第6回【ジャズ(即興芸術)の誕生Ⅰ~ジャズの即興性の発展をたどる】 (5月10日放送)
カルチャーラジオ 芸術その魅力(ラジオ第2 毎週水曜 8:30pm | 再放送 毎週水曜 10:00am)
<シリーズ> アメリカン・ミュージックの系譜 慶応義塾大学教授…大和田俊之
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近年になって、ジャズ誕生の物語が少し危うく(信憑性が薄れて)きているが…
いままでの物語とは……
ジャズはニューオーリンズで生まれた。
ここには、三層構造があった
 アフリカ系アメリカ人・クレオール(混血)・白人
1861-65年 南北戦争 北がしばらく南を支配する中で、
クレオールの人々が黒人扱いされ、相対的に社会的地位が下がってしまう
彼等が造りだしたのがジャズ

<疑問>何をもってジャズとするのか?
シンコペーションを持つダンスミュージックなら、ニューオーリンズに限らないのでは?

オリジナル・ディクシー・ジャズバンド
1917年にレコーディング 第一次大戦中 
ニューオリンズの港が閉鎖されてミュージシャンが各地に散らばり、広まったとされる

ニューヨーク
1920年代 ハーレム・ルネッサンス
アフリカ系アメリカ人の文化、黒人文化が脚光を浴びる
デューク・エリントン
 白人が黒人に対して持っているステレオタイプに自ら乗っかって表現する
 「ジャングル・ミュージック」と自ら名乗る
 白人もこの音楽に入ってくるように。
 スウィング・ジャズの演奏を終えた後、ハーレムに帰ってきたミュージシャンたちによる夜の打ち上げ的なセッション(即興演奏)の中で、新たにビバップ・ジャズが生まれ、評判になっていく
 
1930年代までのスウィング・ジャズというものは、ダンスミュージック
  芸能的。躍って楽しむもの = 当時の音楽の主流派。ティンパンアレイと軌を一に。
  ナチス台頭の時代
  ナチスは「スウィング・ジャズはユダヤ人が関わる忌まわしい音楽」と評する
  アメリカ側(ジョン・ハモンド)は「スウィング・ジャズがアメリカの民主主義の体現」
   (楽器のソロ演奏=個人主義と、全体のハーモニー=社会全体 のバランスの体現)
vs
1940年代以降のジャズ=ビバップ
  芸術的。座って鑑賞すべきもの。当時の音楽の主流派ではない。


第7回【ジャズ(即興芸術)の誕生Ⅱ~同時代のアメリカ芸術(文学・アート)との関係】(5月17日放送)
カルチャーラジオ 芸術その魅力(ラジオ第2 毎週水曜 8:30pm | 再放送 毎週水曜 10:00am)
<シリーズ> アメリカン・ミュージックの系譜  慶応義塾大学教授…大和田俊之



国際音楽コンクールにかまけて、すっかり脇に追いやられていたラジオ講座関係の記事を
遅ればせながらアップします。

1950~60年代に「ジャズ=即興音楽」のイメージが社会全体に浸透した経緯

(1)白人の作曲するスウィングジャズ(by ビッグバンド)が大流行
仕事が終わったあとの小規模な打ち上げの中から、即興のソロを中心とした演奏が生まれ、ビバップと名付けられる

(2)1920年代 不況 世界恐慌により、ビックバンドが維持できなくなる
小規模のビバップが注目されるようになる

(3)ジャズミュージシャンの記譜法が生まれる
音楽の楽典を記号化(音符よりコード)
音楽理論が演算可能になっていく

♦︎西洋、白人の音楽=成文化された音楽
これと対立する非白人音楽として、
♦︎黒人の音楽=即興
という図式が生まれる。
この図式を遡って適応することで、
♦︎ジャズ=即興(インプロビゼーションimprovisation)
という概念が生まれ、定着することになった。
つまり、後世になって適用された概念。
黒人音楽は伝統的に即興という歴史的事実があるわけではない。

これは音楽に限らない。
♦︎西洋の芸術=完成された、硬直した作品概念
と見る見方は美術にも。文学にも。
これと対立するものとして生まれたのが、アメリカの芸術。

第8回【ロックとポップスⅠ~アメリカ若者文化の隆盛】 
(5月24日放送)
カルチャーラジオ 芸術その魅力(ラジオ第2 毎週水曜 8:30pm | 再放送 毎週水曜 10:00am)
<シリーズ> アメリカン・ミュージックの系譜
慶応義塾大学教授…大和田俊之



1914年  作詞家作曲家の著作権管理団体ascap発足
ティンパンアレーが隆盛する中で、世界恐慌にあって自分たちの権利を守ろうという意図

1920-30年代  ラジオ隆盛
不況の中、「ラジオ局には高く支払わせる」というascapに対抗して、
ラジオ局独自の著作権管理団体BMIを設立(1939年)。
ヒット曲は、すべてティンパンアレーの曲という時代。
BMIは、ascapが持たない曲をかき集め、ブルース、リズム&ブルース、カントリー等、周縁の曲がラジオから流れるようになった。

1950年代
BMIとascapが決裂
ラジオがティンパンアレーの曲を10ヶ月全く流さなくなる

プレイヤー側
1942年、ミュージシャンがストライキ実行。
トーキー映画(1927年〜)、サイレント映画全盛時には、劇場ごとに専属のオーケストラがいた。
ラジオ放送のクオリティが上がり、レコードをかければよくなって専属オケが不要に。
1930年代  ビッグバンドがもたなくなる。
メンバーの一部は即興のビバップへ移行したが、残りはジャンプ・ブルースというジャンルへ。
小編成でのダンスミュージックが流行る。
例)ルイ ジョーダン  「チュー・チュー・ブギ」

1940年代に売れたジャンプ・ブルースは、今では忘れ去られたジャンルとなっている。
ジャズの本質は即興性だという言質が広まり、ここから遡ってジャズの歴史を定義した結果、忘れられてしまった。

歴史を語る上で、売れたジャンプ・ブルースの方を主流と捉える見方もあった。
売れいきでは、ビパップの方が傍流。
しかし、ビバップを主流と捉える見方が採用され、そこから遡って、ジャズの歴史が語られるようになった。
「ジャズは白人文化に対抗する存在である」と見たがる気運があったため。
「楽譜に音符が固定されているのが白人音楽である」という定義が出発点。

ラジオの普及により、それまで黒人コミュニティ向けの音楽とされていた放送が白人にも届いてしまい、クロスオーバー現象が起きた。
メインの白人チャートに黒人の音楽が入り、黒人チャートに白人の音楽が流入。
例)ビッグママソーントン「ハウンド・ドッグ」大ヒット

ロックは、これらとは異なる音楽ジャンル。
エルビス・プレスリーは、チャート上の動きではビートルズを遥かに凌ぐ人気だった。

第9回【ロックとポップスⅡ~新しい音楽の成立をもたらしたビジネスモデル】
(5月31日放送)

カルチャーラジオ 芸術その魅力(ラジオ第2 毎週水曜 8:30pm | 再放送 毎週水曜 10:00am)
<シリーズ> アメリカン・ミュージックの系譜
慶応義塾大学教授…大和田俊之



新しい音楽の成立をもたらしたビジネスモデル
1950年代は、
ロックンロール
しかし、プレスリーは徴兵で、
他も飛行機事故、逮捕などで主要メンバーが音楽シーンから退場。

ビートルズが訪米する1964年までは、
オールディーズ、ブリルビルディンクサウンド、アイドルポップスの時代。
その後、イギリスのバンドがアメリカを席巻するまでの期間を、保守反動ととるよりは、
連続性のある時代と捉える動きが、今ある。
スタジオで実験し、音を作る動き(普通の演奏をただ録音するだけではない)。
ポップスにロックの色をつけたいとする動き(ビートルズも登場当時はアイドルグループの扱い)。

一方、フォークミュージックをやる人々は、政治的メッセージを重要視していた。
商業主義に対抗し、採算を考えずに活動するという象徴性を帯びる。
1965年にエレクトリックギターを持ったボブ・ディランは、体制に組したとして、批難を浴びた。

第10回【R&B・ソウルミュージック~第2次大戦後のアフリカ系アメリカ人の音楽文化と公民権運動の関係】 (6月7日放送)
カルチャーラジオ 芸術その魅力(ラジオ第2 毎週水曜 8:30pm | 再放送 毎週水曜 10:00am)
<シリーズ> アメリカン・ミュージックの系譜   慶応義塾大学教授…大和田俊之



戦後の黒人音楽(1)
1954年 公民権法成立 →差別政策は違憲とされる。
これを機に、公民権運動の性格が変わっていく。
以前は白人と黒人(キング牧師を中心に)が協働して公民権運動に取り組んだが、
60年代以降、黒人が先鋒化。暴力的行為も辞さなくなったため、白人は手をひいていく。

音楽シーンでは、
◆1959年 モータウン・レコードの創設
ここからダイアナ・ロスやスティビー・ワンダー、ジャクソンファイブなどの数々のヒット曲が誕生。
しかし、1990年代までは、
「モータウンの音楽は本物の黒人音楽ではない。大衆化、ポップス化した偽モノだ」
という認識が一般的だった。
「黒人音楽は、もっと野生的でビートの効いたものであるべきだ」という認識。
これはステレオタイプ、いわば先入観によるもの。
モータウンこそが、ミュージシャンも会社組織の運営側も、すべてが黒人であった。
スタジオミュージシャンはもちろん、制作側もすべて、というのは当時として画期的。

当時、「本物の黒人音楽」として扱われていたもののほうに、
実は、多くの白人が、スタッフとしてもミュージシャンとしても入り込んでいた。

作られたステレオタイプの強さを示すもの。

第11回【ヒップポップ~知的でクリエイティブな側面】(6月14日放送)
カルチャーラジオ 芸術その魅力(ラジオ第2 毎週水曜 8:30pm | 再放送 毎週水曜 10:00am)
<シリーズ> アメリカン・ミュージックの系譜   慶応義塾大学教授…大和田俊之



ヒップホップが成立するための条件:電気的、電子的な反復するビート
ヒップホップとは無関係にさまざまな人々が実験をしていた。
代表的なのが日本のYMO(イエローマジックオーケストラ)坂本龍一、細野晴臣、高橋幸宏→世界的な影響力

ヒップホップはどう始まったか?
1970年代 ニューヨークのブロンクスで発祥。当時はスラム化し荒んでいた状況。
ディスコに行けないアフリカ系アメリカ人の若者たちが、公園などでブロックパーティー というダンスパーティーを楽しんでいた。
ドラムだけ(ドラムブレイク)になると、ダンサーは「私たちのために空間をあけてくれた」という感覚になり、盛り上がる。→このブレイクがもっと長ければいいのに。

フロアー(需要者)のニーズに基づいて作品を改変する。
もとの文脈から引き離して改変していくというのは、徹底的にポストモダンな考え方。
ジャズの即興演奏と同じように「今のフレーズはかっこよかったね」という感覚。言葉遊び。

元の楽曲を素材として、あらゆるビートを作っていく。
昔の楽曲は「素材の鉱脈」という考え方。ある楽曲のソロの即興演奏のうち数音だけを捉えてビート化することも。→印税は誰に支払うべき?その都度考えて払っている。
近代的な著作権の考え方(あるアーティストが内面から湧き上がってきたものが芸術。内面に創作のリソースがある)ではとらえきれない新しい動き。
ヒップホップの創作の源泉は「データベースの検索」にある。新しい形の創作物。

第12回【ヒスパニックの時代~ヒスパニックとアジア系の台頭がもたらすアメリカにおけるラテン音楽の新しい変化と歴史の見直し】(2017年6月21日(水)放送)

カルチャーラジオ 芸術その魅力(ラジオ第2 毎週水曜 8:30pm | 再放送 毎週水曜 10:00am)
<シリーズ> アメリカン・ミュージックの系譜   慶応義塾大学教授…大和田俊之



アメリカ合衆国の歴史を語るうえで、
従来は「白人vs黒人」という枠組みで語られてきたが、今後はそれが変わっていくだろう
つまり、歴史をさかのぼって書き換えていく、という作業が行われるだろう
という話でした。
それは、ヒスパニック系住民が急増しているから。
いまや、統計上、ヒスパニック系がアフリカ系住民を超えているのだそうです。
(もっとも、アジア系、アフリカ系、ヒスパニック系、というのは自分で選択して記入した結果なので、信頼度100%とはいえないそうで……でも、傾向はつかめるはず)

その結果、2016年は、合衆国において
総合ヒットチャートの2位から4位までが「ダンスホールレゲエ」のリズムを用いた楽曲


歴史的にみると、アメリカ合衆国には、特にニューオーリンズには
前世紀以来、一貫してラテン音楽が流入しているのであって、
タンゴ、1930年代のルンバ、1950年代のマンボ、ブラジル音楽のボサノバ、と
大流行が起きています。それは合衆国にとどまらず、日本も含めて世界へも。
特に、モダンサルサと呼ばれる形態は、ニューヨークで生まれたもので、
NYを拠点として、世界中のスペイン語圏へと広まっていきました。

このように、今後は、
合衆国内の音楽の変遷、という枠組みを超えて、
南北アメリカ大陸の中での音楽、という広い枠組みが求められるとのこと。
実際、既に
「ブルース音楽におけるラテン性」といった研究が生まれており、
こういった実証的研究が、今後増えていくだろうと予測されるのです。

例えば、ロックンロールにしても、従来のように
「白人のカントリー音楽と、黒人のブルースが融合して」という捉え方では狭すぎ、
ラテン音楽が北へと流れていく中で、ロックンロールに、どう影響を及ぼしたか
を研究する必要性が生じて来るだろうとのこと。

現在の人口動態の変化は、過去の歴史の見方をも変えるのですね。

第13回【アメリカ音楽とテクノロジー~ストリーミングサービスなどIT革命が音楽文化に及ぼした影響と今後のアメリカ音楽の行方】6月28日(水)放送

カルチャーラジオ 芸術その魅力(ラジオ第2 毎週水曜 8:30pm | 再放送 毎週水曜 10:00am)
<シリーズ> アメリカン・ミュージックの系譜   慶応義塾大学教授…大和田俊之
ストリーミングはこちら



アジア系の人口の伸びは全米一番:2010年4.8% 
テレビや映画の中の群像劇に明らか
 かつては白人と黒人→今はアジア系、ヒスパニック系の役柄が一般化
 かつてはアジア系≒カンフー、といったステレオタイプ化があったが、今は普通の役柄に
 差異の見てくれがステレオタイプ化される

韓国系のミュージシャンがビルボードの上位に
2010年にフィリピン系アメリカ人のヒット曲が全米No.1

デジタル化
ビルボードのチャートは時代に合わせて変化させている
かつての決定:レコード店の売り上げ等で判定→嘘の報告が結構あった

1991年POSシステムが導入→チャートが大幅に変化
 ヒップホップとカントリーミュージックが大幅UP ロックが低下
それまでは人々の嗜好が把握できていなかった

1990年半ば
 インターネットの普及→ストリーミング配信
→ビルボードも再編(cf. ラジオ普及により、演奏家、リスナーの関係変化)
ビルボード「一番売れた曲」ではなく「一番ヒットした曲」
2013年にヒットしたのはYoutubeで再生されたダンスミュージックの曲

ヒップホップのスター  チャンス・ザ・ラッパー
ネット上に無料で曲を置いている「収入はライブで得る。アルバムは売らない。」
グラミー賞の7部門にノミネート 3部門で受賞

***********

私は昭和の人間なので(爆)、未だにCDを購入していて、
音楽をダウンロードで購入することはないのですが、
なるほど、世の中は変化しているのだな~と思いました。
人口動態の変化が音楽にも影響を及ぼすということにも、初めて気づきました。
ジャズにスウィング、ビバップという種別があることも漠然と意識していただけでしたが、
このシリーズで、これまた初めて歴史的な経緯を知って興味をひかれました。
ドビュッシーのピアノ曲名にも見える「ミンストレル」のイメージも理解できました。
いろいろ収穫の多いシリーズだったと思います。

次回からは「絵画の変革と音楽の関わり」という新シリーズがスタートするそうです。
ドビュッシー、ショパン、モーツアルト、ベートーヴェンなどが語られるようです。
これもまた楽しみです。

第1回【二人のクロード:近代絵画と音楽 モネ「睡蓮」/ドビュッシー「水に映る影」】7月5日放送
実践女子大学教授…六人部昭典(→ストリーミング

モネ(1840-1926)とドビュッシー(1862-1918)は、
年齢に20歳以上の差があり、直接の交流もないことから、同じ流派とはみなせない。
モネは印象主義だが、ドビュッシーはその後に続く象徴主義に属する

1805年:世紀の転換期に、モネ、ドビュッシードがともに「水の反映」に着目
従来、反目するとみなされて来た印象主義と象徴主義は、実は近いもの
  • モネ:ボストン美術館蔵の水連(画像参照)を発表→画面中央にあるのは「水面に映る影」=反映(水連ではない)
  • ドビュッシー:代表作の一つ「水に映る影」発表→原題は「水の中の影
20世紀初頭、絵画界も小説界も音楽に憧れる気風があった。
次回から次の3つに大別して解説(テーマは絵画の変革→音楽を手掛かりに絵画を理解)
  • 画家と音楽家の間に交流がある場合(例:ドラクロアの描くショパン)
  • 絵の中に楽器や楽譜など音楽と関係するモチーフが描かれた場合(これが最多)
  • 絵のタイトルに音楽用語が使われている場合
絵画と音楽の差異
  1. 描写・再現性:絵画には可能でも音楽には不可能→絵画は再現だけで満足する危険性も 
  2. 作品構成:「コンポジション」絵画では構図を、音楽では曲作りそのものを指す
  3. 時間性:音楽は時間を伴った芸術
20170706monet
(東京都美術館での「ボストン美術館の至宝展―東西の名品、珠玉のコレクション」】2017年7月20日(木)―10月9日(月・祝)で展示されます)

第2回【切断された肖像画 ドラクロワ「ショパンの肖像」/ショパン「子猫のワルツ」】
2017年7月12日(水)放送→ストリーミング 2017年7月20日(木) 午後3:00配信終了
実践女子大学教授…六人部昭典


1838年:ドラクロア筆「ショパンの肖像」(ルーブル美術館蔵・縦45㎝、横38㎝)
同年:ショパン ワルツ第4番(子猫のワルツとも呼ばれる)、即興曲第1番

絵は切断されて現在の形に。(美術館に残る構想図からわかる)
絵の中のピアノはアップライト。ショパン愛用のグランドピアノではない。
→絵はサンドの自宅か。サンドはドラクロア宛の手紙でも自宅でのショパンの演奏に言及。

切断されたのはドラクロアの死(1963年)後、収集家の手に渡ってから。そのほうが高く売れるとの判断に基づくか。
・サンドの姿はほぼ全体が残った(現在、コペンハーゲンの美術館所蔵)
・ショパンの姿は小さくなってしまった。ピアノを弾く姿は想像できない。

19世紀後半から20世紀は、美術界が、音楽界、文学界と深く交流した時代。
ドラクロアが構想した構図は、それを示している。

絵が描かれた時点(1838年)での人間像
ドラクロア:40歳 既に活躍 ≪美術≫
サンド:34歳 男装の麗人 ≪文学≫
ショパン:28歳 ≪音楽≫ 
・サンドとショパンの関係は1836年暮れから約10年間。絵の制作は1838年マジョルカ島に二人が旅立つ前。1847年3月、二人の破局直前のドラクロアの日記に、サンド、ドラクロアの前でショパンが演奏したとの記述がある。
・1849年4月(ショパンの死の半年前)のドラクロアの日記
「音楽では何が論議をつくるのかとショパンに聞くと、和声と対位法だと答えた」
音楽の構成についての若いショパンの考えは、ドラクロアの色彩理論に影響を与えたと思われる。
≪素描での構図≫
画面中央にピアノを弾くショパン・左に聴くサンド。
ピアノは鍵盤が見えない角度。鍵盤とその上の手は描かれない。→当時としては異端。芸術家二人の肖像画で、そのうちの一人に光が当たりすぎることを避けた。
≪肖像の描き方≫
サンド→情熱と怪しい官能性を描く
ショパン→顔の角度が構想図から微妙に変更→素描(宙を見つめる姿)に見られた「音楽家の自負」よりも、油彩(より下方を向き、集中する姿。額の皺)では芸術家の「苦悩」が感じられる。
*仲睦まじいカップルを描くことが目的ではない。

ボードレールが、音楽家リスト(ショパンとサンドを引き合わせた人物)の言葉を書き記している。
「リストは、ショパンに関する珠玉の研究の中で、この音楽家詩人の熱心な聴衆の一人にドラクロアを挙げている。深淵の恐怖の上を軽やかに飛ぶ輝く小鳥にも似た、軽快で情熱的なショパンの音楽に耳を傾けながら、深い夢想に沈むのを好んだという」
ドラクロアは、深淵と向き合うショパンの精神性を描こうとした。

ドラクロアの日記(1837年 ショパンの死後)の記述
「ショパンの即興曲は、完成された曲よりもはるかに大胆だといえる。これは、完成されたタブローと習作(エスキース)の関係に似ている。確かに仕上げたからといってその絵がダメになるわけではない。しかし、そこにはおそらく習作の持つ想像力の働きがない。」

音楽を担う若いショパンへの尊敬を抱き、絵に音楽の考えを取り入れようとしたドラクロア。
当時の絵画の規範では滑らかな仕上げが必要とされたが、ドラクロアは、褐色の背景の中に、緊張感をもった音楽家の顔を描き出した。

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(画像はMUSEYから)

第3回【ピアノと家族 ルノワール「ピアノを弾く娘たち」/モーツァルト「キラキラ星の主題による変奏曲」】
2017年7月19日(水)放送→ストリーミング 2017年7月26日(木) 午後3:00配信終了
実践女子大学教授…六人部昭典


1892年:「ピアノを弾く娘たち」

ルノアールにとって大切な位置づけにある絵
1)晩年の作風を確立させた作品
印象派の作風(光と人物が溶け合う手法)に限界を覚え、明確な輪郭を取り戻そうとして、ルネッサンスの絵や新古典主義のアングルの技法を学んだりした後、元の柔らかな色調に戻ってきた。その時期の作。

2)フランス政府からの注文によって制作された作品
印象派グループ展を抜け、サロン展に復帰、個展も開催→絵を購入し、支援する人々を求めた行動。この行動が実を結び、国に認められる画家となった。


近代社会に生まれた、理想の家族の幸福を描いた
大家族から核家族へ。夫婦、子どもの間の愛情こそが大切という価値観。ミクロ世界。
・10代の少女二人の美しい服装→娘に心を配る母親、それが可能な裕福さ
・ピアノ、隣の部屋に飾られた絵→芸術に理解のある、教育熱心で裕福な家庭
・妹に寄り添う姉→家族愛
・グランドピアノではなく、アップライトピアノ→国民的家族のイメージ
(ルロール姉妹を描いた絵のように、他にはグランドピアノで弾く少女の絵もある)

19世紀初めの
ピアノ
アップライト:2万台 35ポンド
グランドピアノ:アップライトの3倍以上の値段、売れ行きは10分の1以下

ピアノで弾かれる曲名は何も描かれていない
絵を見る人がそれぞれに、記憶の中の曲目をイメージできる。
少女のレッスン曲からのイメージで、きらきら星変奏曲を選んだ。
モーツァルトがパリに滞在中の1778年、フランスの民謡に取材して作曲した曲。この民謡のフランスでのタイトル「お母さん、私の悩みを打ち明けようかしら」にも、絵に通ずるものがある。

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画像は「西洋絵画美術館」より



第4回【アダージョゆるやかに シニヤック「 アダージョ」/ベートーベン「ピアノソナタ 第26番 変ホ長調『告別』」】
2017年7月26日(水)放送→ストリーミング 2017年8月3日(木) 午後3:00配信終了
実践女子大学教授…六人部昭典


新印象派 シニャック 1891年の作
「凪 コンカルノ アダージョ」(画像はWikimedia Commons

Paul_Signac_-_Concarneau,_Opus_221_(Adagio)

絵のタイトルに音楽用語が使われている点で、音楽との関わりが深い絵。
1891年は、新印象派の代表スーラが急死し、シニャックにとって転機となった年。

(1)楽章を意識した、独自の新しい連作に挑む
海の小舟を描いた4点の作品を
「海 さまざまな小舟 コンカルノ― 1891年」という表題で
発表(1902年)
≪1902年ブリュッセルの展覧会出品、初出時のタイトル≫
・ラルゲット 219番
・アレグロマエストーソ 220番
・アダージョ 221番
・ブレストフィナーレ 222番
→音楽の速度記号と作品番号のみ。4楽章からなるシンフォニーのように構成。
明らかに、音楽作品(ソナタ、シンフォニー)のタイトル、作品番号を意識している。
(現在は、4作に「朝の凪」「夕方の凪」「凪」「船の帰還」というタイトルも添えられている)

(2)新印象主義を理論化する際に、絵画を音楽になぞらえる
「筆触は、シンフォニーの中の一つの音符に等しい」
筆触は絵画を構成する単位と考え、点描という技法を体系化しようとした。


シニャックに影響を与えたと思われる音楽の例として、次の2つを紹介。
ベートーヴェン ピアノソナタ第26番 変ホ長調 第1楽章『告別』
シューマン アダージョとアレグロ 作品70(1849年)

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