PIOピアノ雑記帳

ピアノ、音楽関連の話題を主とした雑記帳blogです。

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青柳いづみこ 著 河出書房新社 2018年9月刊行

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ドビュッシー研究家として、また、著述業とピアニストの両刀使いとして有名な著者による書。巻末の「付記」には

本書は、2014年からの取材にもとづく書下ろしの評論である。筆者がピアノ演奏家であるため、ピアニスト高橋悠治についての記述が多くなった。作曲家高橋悠治、及び二十世紀音楽の動向については、その道の専門家によって探究されんことを。

とあります。
2012年の「ドビュッシー生誕150年」の催しを機にピアニスト高橋悠治と関わりができ、2016年には二人のコラボレーションでCD『大田黒元雄のピアノ』をリリースするまでになった著者。高橋悠治本人との生の交流、精力的な資料収集が生きた内容となっています。

「天下のユウジ・タカハシ」とは認識していたが、日本での活躍ぶりはリアルタイムでは知らないという著者ですが、実は私もまったく同じ。著者は留学中だったため、私は地方在住の少女だったため。


高橋悠治氏の活動を、本書により乱暴にまとめてしまうと、

  • 1938年生まれ。父は音楽雑誌の編集者、母はかつてピアノの天才少女と謳われたピアノ教師、ピアニストの高橋アキは実妹。
  • 子供時代から家の『世界大音楽全集』をかたっぱしから弾き、スコア譜をピアノで弾く力に長けていた。二期会のコレペティとなり、桐朋短大を中退。若い頃から草月会館で現代音楽家たちとも交流する。
  • 1960年、「東京世界音楽祭」で、難解な譜面に辟易した予定ピアニストが放棄した難曲(ボー・ニルソン『クヴァンティテーテン』)を一夜でものにして日本初演を果たすなど、現代曲のピアノ演奏技術、初見能力の高さで名を馳せる。この音楽祭の折に来日した作曲家・クセナキスに、自らピアノ曲の作曲を委嘱・初演。
  • 1963年、クセナキスの弟子という身分で奨学金を得、妻子(24歳で最初の結婚)とともにベルリンへ。奨学金をさまざま得つつ、現代音楽を弾く凄腕ピアニストとして欧州や米国で活動。フランス・ディスク大賞なども受賞する。

驚いたのは、バーンスタイン作曲『不安の時代』をフィリップ・アントルモンの代役で演奏(小沢征爾指揮)し、大評判になったことについて、高橋悠治本人の記憶が曖昧な点(トロントでの演奏なのに、ボストンでの演奏だと思い込んでいる)。

グールドの代役をアンドレ・ワッツが、ワッツの代役をラン・ランが勤めてブレイクするなど、古今のサクセス・ストーリーは大物の代役から始まることが多い。アメリカ時代の高橋悠治が、いかにツアー・ピアニストとしての成功に興味がなかったかを裏付けるエピソードではある。(p.122)

まさしく。

この件についての小澤征爾氏の記述も面白い。
すぐには代役が見つからず困り果て、ふと思い出した悠治に連絡。
「彼は、そんな曲はいままで弾いたこともなければ、聴いたこともないという。が、『これからギリシャに一週間ほど行くが、いま楽譜が手に入ったら出来るかもしれない』という返事だ。トロントの演奏会まであと二週間しかない」
「悠治はいままで、いわゆる現代ものばかりが専門のピアニストだと思ってたのが大ちがいで、ジャズ風なところや、すごくロマンチックなところ、あるいはドラマチックなところのあるこのアメリカの古典曲をごく自然に演じている。大変なやつがおれの友達の中にいたもんだ、とあきれかえった」(pp.112-114『週刊朝日』小澤征爾連載「棒ふり一人旅」より転載)


これは、まさに伝説ですね。
その他、著者・青柳氏が収集された新聞記事に見る、欧州と北米での反応の差なども面白く読みました。
ところが、悠治氏、帰国後はピアニストとしての活動を止めてしまいます。
  • 1970年代初め、ベトナム戦争の世情もあってか、インディアナ大学の数理自動音楽研究センターの職から解雇。コンピュータでの作曲に邁進する道は閉ざされ、日本への帰国を決心。
  • 1978年「水牛楽団」(アジアの民衆の中から生まれた歌を歌い、演奏するバンド)結成。演奏活動から一時撤退する。
  • 1983年、ピアニストの三宅榛名とのコレボレーションでコンサート活動復帰。
  • 1985年、「水牛楽団」解散。
ああ、なるほど。
政治について関心がなかった10代、20代初めの私には記憶がないわけですね。
なんだか長くなりそうなので、今回はここまで。(続きます)


(付記)
高橋悠治氏のサイト内にある、2019年1月更新の記事「演奏の変化」が参考になります。過去に発表した文章に加筆したもののよう。今年2019年にクセナキスを弾くとありますが、これには青柳氏も言及していて、悠治氏にとって新曲とのこと。80歳で。たしかに怪物です。

半藤末利子 著 文藝春秋 2009年9月 刊

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著者は漱石の孫娘(母は漱石の長女・筆子、父は漱石門下の作家・松岡譲)。
思ったところをスパッと切る書きっぷりが印象的です。

短いエッセイが35作並びます。
「悪妻として名高い私の祖母、漱石夫人鏡子」(p.117)
について、
  • 英国留学から帰国した直後の、精神的に病んでいた時期の漱石の酷い仕打ちに耐えた
  • 修善寺での漱石大喀血の際には、宿の人に的確な指示を出し、病状にある漱石を支えた
  • 漱石門下の作家たちが鏡子をこき下ろすようになるのは、漱石の死後。若い頃に書かれたものには鏡子に対する親愛の念が見える
  • 裕福に育った鏡子には尊大なところがあったのは事実だが、その豪胆さがあってこそ漱石の妻が務まったのではないか
といった内容を、あらゆる文脈で述べています。私には大変納得できる指摘でした。
生まれたばかりの赤ん坊をひっつかんで庭に向かって放り投げるとか、なるほど、漱石がロンドンで発狂したという報道が出たりしたわけですね。
その後、病が癒えると優しい父となったのだそうですが、酷い目にあった長女、次女の二人は生涯、漱石に対する恐れの気持ちが消えず、三女以下の5人(漱石の子供は五女、二男)とは、父との関係性が異なることになったのだとか。

漱石の長男、純一氏(房乃介の父)が東京フィルハーモニーのコンサートマスターとなったことに漱石はどう関わっていたのかな…と思っていたのですが、

漱石はとくに音楽好きというわけではなかったらしいが、私の母筆子を連れてよく奏楽堂で催される音楽会へ行ったという。娘や奥さんを着飾らせて音楽会へ行くのが、当時の上流階級の流行であったとか。母はそこでジンバリストやエルマンや幸田延子さんのヴァイオリン演奏を聞いたそうな。(p.159)

とのこと。
女の子が5人続いたあとに生まれた長男・純一氏には漱石は期待をかけてフランス語を教えたりしたそうですが、まだ幼いうちに死別。筆者の目には、純一氏は遊び人の叔父さんと映っていたようです。


また、漱石の死後、妻鏡子と門下の作家たちが対立したことが、漱石記念館の設立を頓挫させたと口惜しがり、2017年に新宿区に開館した漱石記念館を立ち上げようという動きが始まった経緯なども書かれています。漱石の弟子たち、実名を挙げてけちょん、けちょん。中山弘子前区長が公約に挙げて当選したことが大きかったとは、初めて知りました。


本の標題となったのは、カバー写真ともなっている鮮やかな柄の長襦袢についての一文。
「漱石が部屋着としていたという女物の襦袢(個人蔵)」という博物館のキャプションから
記事で「出久根さんが『一番感動した』と言うのが、漱石が執筆の際に羽織っていた襦袢」と書き、「こんな女物の着物を羽織っていたとは、意外性があります」という出久根氏の言葉を引用した朝日新聞。

あちこちに問い合わせて調べた結果、どうやら漱石は、こうした派手な柄を渋い着物の重ね着として着用し、外からは見えない男のお洒落を楽しんでいたようだ、という結論に至ります。
漱石夫人鏡子から松岡譲(筆者の父)、母筆子、そして筆者の手へと渡った長襦袢。
その管理の難しさ(虫干しの必要性)なども興味深かったです。それで、現在は熊本近代文学館に寄託しているのだとか。

伝聞や推量を事実として扱うということへの戒め、今の世には特に必要ですよね。
時代の移り変わり、親子関係など、いろいろ感じるところの多い本でした。

金子幸代 著 大東出版社 2011年4月刊

専門書です。
実は、図書館の蔵書検索で「ライプツィヒ」を検索したらヒットしたので、読んでみた次第。
(読んだのはちょっと前でしたが、レビューを残す時間がなく今に至る……)
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鴎外のドイツ留学は22歳~26歳。
鴎外というと、苦みばしったインテリ医者といった風貌の壮年期以降の写真が思い浮かびます。
青年期の鴎外って、あまりイメージできません。青年・漱石が留学先のイギリスで煩悶して神経衰弱になったことがよく知られているのとは対照的。

なるほど。
多感な時期の鴎外は自らすすんでドイツ演劇に足を運び、後年、この経験が執筆活動の源泉の一つになったのですね。
イプセンの「人形の家」は有名ですが、鴎外がこの本のドイツ語訳をもとに1913(大3)年、「ノラ」を翻訳出版し、実際に上演されていたこと、
鴎外の創作した戯曲のほとんどがすぐに上演され、1907(明40)-1916(大5)の10年間に鴎外が翻訳した戯曲の上演は50回に及んだこと、
初めて知りました。

さて、22歳の若き陸軍省派遣留学生・鴎外は
1884年8月20日、フランス船メンザレー号で横浜を出港。マルセーユに入港後、パリを経て、10月11日にドイツの首都ベルリンに到着。
10月22日、ベルリンから汽車で3時間半をかけてライプツィヒ入り。
ライプツィヒ→ドレスデン→ミュンヘン→ベルリンと続く、留学生活をスタートさせます。

後年、ドイツ留学時代を扱った作品『妄想』の中で「全く処女のような官能を以て外界のあらゆる事象に反応した」と表現した鴎外。最初の地・ライプツィヒでは特に清新な驚きをもって生活したようです。

ライプツィヒは、
バッハがカント―ルとして勤務した聖ヨハネ教会、メンデルスゾーンが創設したゲヴァントハウス交響楽団を持ち、シューマン、マーラー、グリーグ達も住んだ音楽都市。
でも鴎外は、友人たちに誘われて音楽会に赴くことこそあれ、
彼自らが求め、雪道を押してでも一人で赴いたのは演劇であった、とのこと。

実はライプツィヒ、文化都市かつ教育都市でもあって、ライプツィヒ大学に学んだゲーテが
「我はたたえる、我がライプツィヒを!ライプツィヒは小パリであり、そこに住む人々を教え育てる!」
と評したということも、この本で知りました。

4都市での鴎外の姿を強引にまとめると、次のようになるでしょうか。
研究活動はちょっとおいて、生活者・鴎外としての姿。

(1)ライプツィヒ=レクラム出版を擁する文化都市:読書を通してドイツ文化を吸収。新聞評から演劇に興味を抱き、実際に観劇も。
(2)ドレスデン=演劇都市:観劇に熱を入れる。
(3)ミュンヘン=国際都市:在住日本人との交流が増える。
(4)ベルリン=国家による管理都市:管理の強さに自由に動けず、閉塞感を覚える。

*************

さて、実はわたくし、
本日これから羽田空港へ赴き、GWを利用してライプツィヒの友人を訪ねます。
友人とは、なんと28年ぶりの再会(豪州で仕事をしていた若かりし日に意気投合)。
一世一代の旅行です。笑
ミュンヘンでトランジットし、滞在中はドレスデンベルリンも訪問する予定。
鴎外との共通点にビックリです。

PCは持参せず、ネット接続はWiFiのみのスマホ対応で乗り切るつもりなので、
旅行中、このブログを更新できるかどうかわかりませんが、メモ程度には残せたらいいな。

では、行ってまいります。

森まゆみ 著 筑摩書房 2012年10月刊 (画像は2016年刊、ちくま文庫)
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『女三人のシベリア鉄道』がよかったので、同じ著者の作品に手を伸ばしました。
今度は夏目漱石。
筆者の暮らす千駄木に住み、生活していた漱石。
その頃の漱石に焦点を当てて、筆者の心の赴くままに、随筆を書き継いでいく作です。

その中で、印象に残ったことをいくつか。
冒頭の「明治の借家事情」は、まったく意識していなかった明治の世の東京事情に触れられて面白かったです。

「廃藩置県になって旧大名はいったん国元に帰り、跡地は荒れ果て、いくつかは論功行賞として維新の立役者に与えられた。湯島の越後榊原邸が維新後、人斬り半次郎こと桐野利秋に与えられたのはその例である。彼が西南戦争で逆賊とされるや、牧野家の所有となり、さらに新興の三菱財閥の岩崎弥太郎へと所有者が変わった」(p.12)
「あるいは本郷にあった加賀百万石の前田家とその支藩富山藩の屋敷は、明治十年代には東京大学の敷地となった。隣の御三家の一つ、水戸屋敷は一高になった。」(p.13)


そういえば、「ブラタモリ」でも、東京駅の丸の内側と八重洲側とには江戸時代の武家屋敷街と町人街の差が生きている、とかあったなあ…と思い出しました。
そんな中、「福山藩阿部家の西片町」は、旧藩主が居住。藩校の分校を公立学校にして、残りの土地を借地経営し、佐々木信綱、上田敏、田口卯吉、半井桃水らが住む文化人の町となっていき、「本郷周辺には学者町・学生町が形成」されたとか。

ここにほど近いのが、千駄木。
漱石が住んだ「駒込千駄木町五七番地」の借家は、建てられて間もなく明治23~25年には森鴎外が住み、その後何度か店子が変わったのち、明治36年3月3日(1903年)、英国留学から帰国した漱石一家(漱石36歳、妻鏡子27歳、長女筆子5歳、次女恒子3歳)が入居。
ここで、三女、四女も生まれ、『吾輩は猫である』のモデルとなった家もここ。

この章に限らず、印象深いのは、
家探ししかり、職探ししかり、あらゆる節目に大学の学友ネットワークが駆使されること。
「たまたま一つの家に住んだ人が後に有名になったというよりは、そもそもエリートコ―スに乗った人しか住めない家であったようにも感じられる」(p.18)という、そのとおりなのでしょう。
漱石自身も友人たちのためにいろいろと心を配っている様子が、紹介される多くの書簡から伝わってきます。気配りの漱石、思いやりの漱石。

仲間のなかでのつきあいの深かった寺田寅彦とは、美術鑑賞はもちろん、音楽会も共に楽しんだとのこと。
場所は「上野の音楽学校の演奏会」。上野の奏楽堂です。寅彦は、漱石がこのとき「曲目の内に管弦楽で蛙の鳴き声を真似するのがあった」のを面白がり、あるきながら蛙の鳴き声の真似をしては笑っていたことを随筆に書いています。
漱石の小説『野分』にも奏楽堂の音楽界を描写するくだりが。そこには、「鳶が音楽に調子を合せて飛んでいる妙だな」などとあり、窓外の景色を見ながら音楽が楽しめたことがわかります。いいですねえ。親友とのゆったりした交流。

それにひきかえ、家族に対する態度は、まさに手のひらを返したよう。。。生活者としては失格ですねえ。。。こういう漱石の姿は今まで知らなかったので、驚いてしまいました。
具体的には、こんな感じ。
洋服を着せようとしてもふいと向こうへ行く、金をくれず一円札を足元に放り投げる、夜中に雨戸を開けて庭に飛び出す、ランプを割って火屋を粉みじんにする、火鉢をひっくり返し灰をたたみ一面にばらまく……。(p.76 鏡子夫人の『漱石の思い出』による)

漱石の神経衰弱、家族からすれば大変だったことでしょう。

『吾輩は猫である』が近隣憎悪小説であるとすれば、『道草』は姉、兄、妻、養父などとの齟齬を描いた近親憎悪小説だ。前者が千駄木時代を描いた滑稽小説だとすると、後者はなくなる年に書かれた心理小説である。心の中にいつも鈍痛があり、画面はいつもどんよりとしている。(p.65)

卓見だと思いました。
鏡子を悪妻とする意見も多いようですが、これは漱石の弟子の目から見た姿。
鏡子の立場からすれば、
神経質で夢見がちな夫に付き合ってはいられない、「私には子どもがおり、生活がある」、私はこの妻の言い分に共感する。(p.66)
私も同感。
小説中の細君に見られる「心神喪失や幻覚、痩せ、異常行動は、彼女が夫から受けた抑圧によるもの」で、漱石没後、鏡子は悠々自適、でっぷり太って長生きしたとのこと。なるほど。

漱石という人、明治という時代を肌で感じられるような随筆集でした。

森まゆみ著 集英社 2009年4月刊
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このところ読んだ本では、
ヴァン・クライバーン(チャイコフスキー国際コンクールの初代優勝者)
イリーナ・メジューエワ(ロシア出身で日本で活躍中のピアニスト)
エフゲニー・キーシン(誰もが知る実力派ピアニスト。ソ連生まれ)
と、
ソ連、ロシアづいていた勢いで、あら、おもしろそう……と借りてきた本です。

著者とお友達3人組がシベリア鉄道でロシアを旅する楽しいエッセイ??
なんてノリで借りてしまいましたが、全然違いました。
なんともずっしり、文学&歴史を紐解く、内容が凝縮された本。。。学術本の趣も。
なにしろ、中身が複雑です。

まず、筆者自身の①の旅程を綴りつつ、その間に②を挟み込むという構成。
(①東京―ウラジオストクーモスクワーパリ:2006年8月末~9月末)シベリア鉄道
(②成田ー大連―長春ーハルビン:2007年10月31日~11月初旬)東清鉄道

しかし、実は、筆者自身の旅よりも、
シベリア鉄道で実際に日本からモスクワ、パリへと旅した、次の女流作家たちの足跡をたどることを第一目的とした本なのです。

A:与謝野晶子(1912年)
 パリに留学に出した夫・鉄幹を追って(7人の子を日本に残しての一人旅)。33歳。
B:中條(宮本)百合子(1927年) 
 女友達と旧ソ連に滞在後、家族と合流するためにモスクワからパリへ。27歳。
C:林芙美子(1931年)
 夫公認の恋人を追って。または「放浪記」の著者ならではの旅心による一人旅。28歳。

よって、話は筆者自身の旅になったり、作家たちの話に時代が飛んだり~それも3人が入れ替わり立ち代わり~といった具合で、読み手としてはかなりプレッシャーを感じました。

全体として文学、政治、社会背景の話が多いですが、音楽にまつわる記述も少し。
印象に残った点を挙げてみます。
日本とロシアって、歴史的に見ても交流が深いんですね。
そして、日本にせよ、ロシアにせよ、文学者と音楽家って、交流を持つものなんですね。

(1)筆者が出会ったウラジーミルさん(1947年シベリア生まれ)と日本の歌謡曲
若いころは極東防衛隊にいて、よく日本のラジオ放送を聞いたよ。日本には本当なきれいな曲があるんだね。それに世界中の美しい曲に日本語をつけて歌ってる。器用なもんだ。音楽はいい。」(p.116)

(2)中條百合子と小野アンナ(バイオリニスト)の交流
中條百合子が湯浅芳子と護国寺の近くで共同生活を始めた1925年ごろのこと。

(3)モスクワにおけるトルストイとラフマニノフ等の交流
トルストイの家博物館~郊外のヤースナヤ・パリャーナ。文豪レフ・トルストイ(1828-1919)が冬を過ごした家~についての記述
広い邸は木立に囲まれ、夏だって居心地はよさそうだ。一階の食堂ではチェホフ、オストロフスキー、レーピンらと共に過ごし、二階のホールではスクリャービン、ラフマニノフ、リムスキー・コルサコフがピアノをひいた。」(p.178)


驚いたのは、次のようなところ。

・共産主義が廃れた2006年当時のロシアにおいては、ロマノフ家の人々を崇める気運、ロシア正教会の復権が目立った。

・ブルジョワの百合子(父中條精一郎は京橋・明治屋の設計者。子ども時代には久野久子にピアノを習う。中條家は1920年代に一族挙げて渡欧旅行する経済力があった)と、庶民階級の芙美子(芸者と馴染んだ父と離れ、母キク、養父沢井と三人で各地を行商して歩いた結果、幼少時よりすっかり旅ぐせがつく)は、シベリア鉄道の列車でも、パリ滞在中も、金銭感覚やふるまいがかなり違う。

・与謝野晶子は、傍目には実力も人望も失っていく鉄幹(そんな鉄幹に対する啄木の嘆きが残る)と添い遂げ、「長男光は慶応を出て医者に、次男秀は東京帝国大学を出て外交官になり、三男驎は同じく東京帝大を出て満鉄に」といった具合に、子だくさんの中、子どももまっとうに育った。

・第二次大戦で戦勝国となったソ連だが、戦死者数は日本とはくらべものにならないほど多い。ベラルーシも同様。

そして何よりも、
明治から昭和初期にかけて、多くの日本人がシベリア鉄道経由で渡欧しており、その中には少なからぬ女性もいたという事実に、びっくり。
さらに、21世紀になって、その行程を日本留学中のアリョーナ、柳という通訳担当の学生を伴って踏破したという筆者の行動力に脱帽でした。

川上未映子、村上春樹 『みみずくは黄昏に飛びたつ』新潮社 2017
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「訊く」川上未映子の鋭さと、「語る」村上春樹のポリシーの確かさに唸らされました。
内容をまとめれば、「はじめに」で川上さんが書いているように
大切なのはうんと時間をかけること、そして「今がその時」を見極めること。村上さんはくりかえしそれを伝えてくれたように思う。(中略)
まずはみなさんも一緒に入ってくださると、すごく嬉しいです。ようこそ、村上さんの井戸へ。
ということになります。

第一章 優れたパーカッショニストは、一番大事な音を叩かない
第二章 地下二階で起きていること
第三章 眠れない夜は、太った郵便配達人と同じくらい珍しい
第四章 たとえ紙がなくなっても、人は語り継ぐ


という構成のうち、第三章、第四章は新作『騎士団長殺し』の執筆に関するインタビューで、まだこの作品を読んでいない私は、ざっと読み飛ばした感じとなりました。
第一章、第二章の濃さ・深さだけでおなかいっぱい……となってしまった感もあります。

村上春樹文学は他の言語に翻訳されても読みやすい、理解されやすい、という点について、よく、春樹の英米文学への傾倒を理由とする説を聞きますが、春樹自身の考えではそうではないようです。

僕のボイスがうまくほかの人のボイスと響き合えば、あるいは倍音と倍音が一致すれば、人は必ず興味を持って読んでくれるんです。最初の『風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』は、その響き合い、倍音の呼応だけで読んでもらったような気がする。その一点の勝負だった。僕のボイスがうまくほかの人のボイスと響き合えば、あるいは倍音と倍音が一致すれば、人は必ず興味を持って読んでくれるんです。最初の『風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』は、その響き合い、倍音の呼応だけで読んでもらったような気がする。その一点の勝負だった。(p.38)

すごく不思議に思うのは、僕の小説が翻訳されると、翻訳されてもなお、ボイスが消えないんですね。(中略)
自我レベル、地上意識レベルでのボイスの呼応というのはだいたいにおいて浅いものです。でも一旦地下に潜って、また出てきたものっていうのは、一見同じように見えても、倍音の深さが違うんです。(p.39)

「ボイス」(これは「態」じゃなくて「声」ですよね)、「倍音」という音楽用語で、実にうまく言い当てているように思います。そういえば、第一章のタイトルも音楽絡み。
上記は「小説を書いていて、必要な時に必要な記憶の抽斗がぽっと勝手に開いてくれる」という「キャビネットの存在」を語る箇所と、物語を「くぐらせる」ということについての箇所ですが、この後、「文章とリズム、書きなおすということ」についての語りでは、次のような箇所も。

音楽を演奏するみたいな感覚で文章を書いているところは、たしかにあると思う。耳で確かめながら文章を書いているというか。それから「壁抜け」じゃないけど、本当に優れた演奏はあるところでふっと向こう側に「抜ける」んです。ジャズの長いアドリブでも、クラシック音楽でもある時点で、一種の天国的な領域に脚を踏み入れる、はっという瞬間があるんですよね。(中略)
そういうふっと「あっち側に行っちゃう」感覚というのがないと、本当に感動的な音楽にはならない。小説だって同じことです。でもそれはあくまで「感覚」「体感」であって、論理的に計算できるものじゃありません。音楽の場合も、小説の場合も。(p.48-49)

なんか、深いです。
やたら穴やら井戸やらが出て来るのは、そういうことなのか、と納得もしました。
登場人物の名前も、比喩も、話の筋も、「向こうからやってくる」もので、論理的に頭で考えるものではないのだそうです。

さらに、グレン・グールドまで出て来ます。
頭で考えて書くんじゃない、ということを「プログラミングする側とプレーする側が、自分の中で完全にスプリット(分断)されている」と喩えたうえで、さらに、バッハの「ゴルトベルク変奏曲」の聴き比べを例に挙げて、

グレン グールドの演奏って、他の奏者のものとは圧倒的に違うんですよね。実に孤絶しているっていうか。どこが違うんだろうってずーっと考えてきたんだけど、やっとわかったのは、普通のピアニストって右手と左手のコンビネーションを考えながら弾いているじゃないですか。ピアノ弾く人はみんなそうしてますよけ。当然のことです。でも、グレングールドはそうじゃない。右手と左手が全然違うことをしている。それぞれの手が自分のやりたいことをやっている。でもその二つが一緒になると、結果的に見事な音楽世界がきちっと確立されている。(p.103-4)

「右手と左手のスプリット感」が独特で、「グールドがプログラムしているんじゃなくて、自然にプログラミングされてる感じ」、これが「乖離の感覚、乖離されながら統合されているという感覚」を生み出し、何かしら本能的に人の心を強く引きつけるというのです。
で、
若い作家がノープランで作品を書いて、結局わけがわからなくなってしまっているようなのは
グレングールドばりに右手と左手をバラバラにやってみて、出来上がったものが全然音楽になってないのと同じ。(p.117)
と言い、それは「地下二階」(地上は団らんの場とプライベートの場、地下一階が自分自身の意識に密接した、トラウマも含む場、そしてさらに深い地下二階は…)という深さにまでコミットできていないことの表れだ、とのこと。
この「地上」「地下」の話では、
ヒラリー・クリントンは家の一階部分に通用することだけを言って負けて、トランプは人々の地下室に訴えることだけを言いまくって、それで勝利を収めたわけ。
と言い切っていて、これまた納得してしまいました。

長くなるので、このへんで止めますが、お二人のしなやかな丁々発止、お見事でした。

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