PIOピアノ雑記帳

ピアノ、音楽関連の話題を主とした雑記帳blogです。

カテゴリ:書籍レビュー > ノンフィクション

著者: 内田 樹(うちだ たつる)
出版社: マガジンハウス 
2019年7月刊行
51QCFg8NQKL._SX343_BO1,204,203,200_

先日、村上春樹についての講演会を聞いて、著者の生き方に興味を持ち、
その自叙伝のような本作を読んでみました。
まず、その生地がこのご近所と知って、びっくり。
その描き方がふるっています。

 クオリティが高いも低いも、僕たちが生まれ、育った東京の南西部の工場街には、よそと比較して誇れるような「文化」的なものが何一つなかった(「生まれた町からの文化的な贈り物」について誇らしげに語る関西生まれの文化人たちと比較して)

 僕たちの「ふるさと」には、守るべき祭りも、古老からの言い伝えも、郷土料理も、方言さえもありませんでした。哀しいほどの文化的貧困のうちに僕たちは育ったのでした。


ううむ。
我が家の近所はもはや「工場街」とはいえませんが、本質は似たようなもの。
そもそも私、転勤族の娘にて故郷を持たず、こういう発想と馴染まないのですが、我が子供時代を振り返れば、両親が同郷(裏日本地域)で封建的ともいえる家風を確立していたような。
これが一種の文化となっていたのかなあ。
翻ってわが身。
夫と私の間には文化といえるものなし。
子供がまっすぐ育たないのも当然といえるかも。

内田氏も、親から受け継ぐ武士道精神的なものが自身の文化である、といったことを述べています。
「いるべきときに、いるべきところにいて、なすべきことをなす」ということが武道のめざすところです。
と。
そして、自ら道場を構えてしまうのですから、突き抜けています。

「人間は基本的に頭がよい」という基本精神にもハッとさせられます。曰く、
 人間は学ぶことをほんとうは願っている。教師がするのは「学びのスイッチ」を入れることだけです。
 氏の専門はフランス文学ですが、大学に専任職が得られない間、予備校でフランス語を教えていたそうで、そのときの教え子たちの中心が大学の転部・転科の希望者たち。
「英語が苦手だから、フランス語で受けたい」と言う彼ら、中高の6年間で英語嫌いになってしまった彼らに、数か月で大学入試レベルのフランス語を教えるわけですが、それが見事な効果を上げることとなり、結果、 
 脳は本質的に活動が好きですから、使い方を覚えれば、高速で回り出す。 
 外国語学習のための脳部位を彼らは6年間使ってこなかったのですから、脳だって使われたがっています。

と断言。そして、
 目の前でみるみるうちに潜在的な才能が開花してゆくのを見ること、これは教師冥利に尽きる経験です。僕はそれを教師になって早い段階で経験することができました。
とつなげます。
はい、脱帽。

それから、印象に残ったのが「火を熾す」という表現。
「その人の一番いいところを見る」という原則をとっているという氏。

 火を熾すときに、うちわであおいだり、ふうふう息を吹き込んだりするのと変わらない。
 僕は火にあたりたいわけです。だからどうすれば火がおこるかを考える。

 人に質の高いものを生み出してほしいと思ったら、いいところを探し出して、「これ、最高ですね」「ここが、僕は大好きです」と伝えたほうがいいに決まっている。

親としても教師としても、私は失格だなあ。
そういう思いを強くいたしました。

ミーテクペンパー著  大月書店  280P 2007年1月刊
51yVkQQBFYL

映画「シンドラーのリスト」で、なんとなくモヤっとした部分があり、手に取りました。
著者は、収容所司令官アーモン・ゲート直属の速記者(収容所書記)を務めたユダヤ人・ペンパー。
アーモンの極悪非道ぶりは、映画でも印象深く描かれていました。

著者ペンパーは、戦後、ナチス幹部らの戦争裁判に呼び出されて証言台に立ち、裁判所における被告の驚愕ぶりを見ることによって、
強制収容所司令部での私の仕事がどれほど異例、いやまさに規則違反の事態であったか
に気づいたと言います。

そう、著者は軍事機密情報にじかに接し、それをもとに収容所内でどう振る舞えばよいのかを、ときには、どのような書類をナチス上層部に提出すべきかを自ら考え、いつなんどきアーモンの気まぐれで自分が射殺されるかもしれないという恐怖のなか、機転と理知で危機を乗り切ってきた人なのです。

「シンドラーのリスト」ではわからなかった、気づかなかった点について納得することができました。
例えば、次のような点。

・映画で描かれた収容所(クラクフ-プワシュフ収容所)は、ゲットーから生まれた唯一の施設だった(ナチスによる新設ではない)ため、ユダヤ人たちの間には既に人間関係が出来ていた。

・映画で描かれたイサック・シュターン(シンドラーに工場の一切を任されたユダヤ人。この本では「イザーク・ステルン」と表記)は映画用に単純化された人物造形で、実際には著者ミーテク・ペンパーの人物像も投影されている。

・初めは「強制労働収容所」だったここが戦争が終わるまで存続しえたのは、著者が目にした文書の中で「今後存続すべきユダヤ人収容所」の条件として勝利決定的という新しい語彙が登場したことに気づき、「ぜひとも本当の軍需生産部門を立ち上げないことにはシンドラー工場のユダヤ人作業班は存続できなくなる」ことをシンドラーに伝え、二人で画策した結果、ナチスの意図に沿う収容所と認定されたことによる。

著者の鋭い観察眼、判断力に驚かされます。
「絶望は勇気を与え、希望は臆病にする」
という言葉、深く、そして重いです。


どんな些細なことも事実に合っていなければなりません。ひとつでも不正確だと信頼性は揺らいでしまいます。私はどんな誇張も許しません。私は真実のみを語ります。一言もつけ加えません。むしろふたこと少な目に語ることにします。

と、まえがきで宣言する著者は、
オスカー・シンドラーとは、1974年に彼が亡くなるまで友人として付き合いがありました。
といいます。

シンドラーの偉大さは、「シンドラーのリスト」を書いたという一点だけにあるわけではないのです。
それは、ユダヤ人たちを新たな地まで移送し、そこに彼らの居場所を創り上げ、日々の食事、生活の面倒までも、戦争が終わるまで責任をもって見た、という点にあるのだと知りました。

「ぼくのユダヤ人」たちがナチスに虐待されたりしないよう、自らの住居も工場のごく近くの粗末な家に定め、目を光らせていたというシンドラー。彼の妻・エミーリエについても
エミーリエは、涙ぐましいほど一所懸命に病人や一人前には働けない人々の面倒をみてくれました。私が覚えているエミーリエ・シンドラーは、まじめな規律正しい女性です。
と断言する著者。
1945年2月、3月という物資調達の困難な時期に、ユダヤ人たちに食べ物を供すべく、人脈を駆使して奔走してくれたという彼女の姿は、映画から受ける印象とは異なります。

映画だけではつかみにくい時代背景、状況が理解できました。

エーヴ・キュリー著 白水社 542ページ 2014年7月刊
41Vwri9FJRL

 子ども時代に読んだ記憶のある本を、思い立って図書館で借り、おそらく47年ぶりに再読。幼い頃、憧れの目で見つめたマリーの人生を、今は慈しみの目で追い、頭(こうべ)を垂れる自分を発見しました。

 新訳だったのですね。
 実は、新しい物質を、ラジウムを「見いだす」という表現に納得がいかなかった幼き日の自分を覚えていたのですが(「見い」って何???とはてなマークが頭の中を踊ったのでした。「見る」+「出だす(いだす)」という語組成がわからなかったのです。)、この表現、もうありませんでした。
でも、マリーの写真、そして、いくつかのエピソードは記憶のまま。
少女の頃、読書に熱中するあまり、きょうだい達にどんないたずらをされても気づかなかった、とか
ピエール・キュリーとの新婚旅行は、二人揃ってのサイクリング旅行だった、とか、
ピエールの交通事故の描写、とか。

幼い日には読み飛ばしていた新発見もいくつか。
マリーのきょうだい全員が優秀な頭脳の持ち主だったこと(姉ブローニャ、兄ユゼフは医者に、美女の姉ヘラは教師に)、
パリ留学中の学生時代に、のちの著名ピアニストにしてポーランド大統領となったパデレフスキ氏と交流を持っていたこと、
キュリー夫妻の娘、長女イレーネもノーベル賞を受賞していたこと、
この本の著者である次女エーヴは、ピアニストとしても活躍していたこと。

パデレフスキとの縁はこんな具合でした。
マリーをコンサートに引っ張って行ったのは、姉ブローニャの夫。

「でも、じゃない!弾くのは、前にぼくが話したあのポーランド人のピアニストなんだ。だけど前売りがほとんど売れてない。あいつのために、なにがなんでもホールを満員にしてやらなけりゃ。それで有志も募ったのさ。みんなで手が折れるほど拍手して、大成功だという雰囲気をつくり出してやる……だいいち、やつはほんとうにうまいんだ!」
(中略)
 ステージには、背の高い細身の男が現れて、ピアノに近づく。独特な顔立ちを、赤銅色に輝く髪が炎のように取りまいている。
 そうしてそのしなやかな指から、リストが、シューマンが、ショパンが、鮮烈に流れ出したのだ。その姿は、絶対的な力に満ちて高貴であり、霊感を得たその目は、はるかな遠くを見つめている。(pp.147-148)

 若き日のパデレフスキといつもいっしょだった若く美しい女性、当時の恋人で、のちに結婚することになるその人は、「遠いむかし、まだ16歳だったころ、二人(マリーとブローニャ)の母スクウォドフスカ夫人の湯治に付き添った人だった」という奇遇が、彼らを結びつけます。
 そして、パデレフスキは、ブローニャ――ドウスキ夫人――宅のアップライトピアノを弾き、その平凡な楽器を「たちまち崇高な楽器に変貌」させたのでした。
このあたりの描写、さすがは音楽家としても生きた娘、エーヴならではなのだろうと思います。

彼女の描き出した、母、マリー・キュリー。
科学への使命感と、家族への愛に生きた、真摯な女性。
その存在の前に、ただただ、頭を垂れるばかりです。
実験に邁進した若き日には、ポストにも金銭にも恵まれず、夫を失った後に名誉を得ることになった晩年の彼女の次のような姿が、心に響きました。

 四半世紀前に成しとげられた発見について、どのように敬意を表されようと、この老婦人のなかに息づきつづけていた熱情あふれる女子学生の心を、どうして満たすことができるだろう? 彼女の落胆のことばは、名誉という名の早すぎる埋葬に対する、抗議だった。「あの人たちにわたしの<輝かしい業績>の話をされると、わたしは自分がもう死んだみたいな、死んだ自分を見ているみたいな、気がしてくるわ」母はようそうぼやいていた。「それに、わたしにまだできるつとめは、あの人たちにはもうどうでもよくて、わたしをほめるには、わたしがいなくなったほうが気楽みたい」そんなふうにも言った。
 こうした抵抗、こうした拒否のなかにこそ、キュリー夫人が大衆に与えた例外的な影響力の秘密があると、私は思う。人気のある大スター――政治家とか君主とか、舞台俳優や映画スターなど――は、舞台にあがったとたん、ファンたちの期待にこたえ、感情に訴えて、一体感をつくりだすものだが、それとはまるで逆に、マリーの心は、自分が出席している盛大な式から、不思議にもすっとぬけだしていたのだ。黒い服に身をつつんだその不動の姿には、胸を衝かれるような印象を受けるが、それはまさに、観衆と彼女とのあいだに、なんのコミュニケーションもないことを示していた。
 栄光のさなかにあったあらゆる人びとのなかで、あれほど閉ざされた表情と、その場に心がないかのような雰囲気を見せた人は、たぶん、ほかにだれもいなかった。嵐のような喝采のなかで、あれほど孤独に見えた人は、ほかにだれもいなかった。(p.481)

上法 奏 著  芙蓉書房出版 2007年3月刊

31IcMjHgJEL
ちょっと古い本ですが、ドイツ旅行関連本を探す過程で目に入り、読んでみました。
1973年生まれ、27歳にしてケルン音楽大学に学び、伴奏ピアニストとして大学に職を得て生活していた著者による好著です。お仕事のための移動中、ドイツの長距離電車内で書いたものが多いとのこと。

第1章 ドイツでの音楽的日常 生きるための仕事と愉しき日々
第2章 ピアノ学生が外国で暮らすまで
第3章 ヨーロッパを吹き抜ける音
第4章 音楽が世界に託す夢 そして日本人の私


音楽大学で学生に付き添ってピアノを弾く「コレペティトア」を仕事とする著者。
実際に異国の地に飛び込んで自分の手で仕事をつかみ、それを広げてきた著者による言葉は、深く、そして強いです。

我々音楽家というのは、本番が大きいかどうかなどということよりも、短い演奏であっても、曲と自分の間に何かが一致することが肝心なのだ。表現したり、作り上げるというよりは、たとえ一瞬であっても、啓示を受けるが如く各々の音楽の魂そのものになることができれば、それで充分満足して幸せになれる人種なのだ。
そして、それこそが実は、一番得難い瞬間なのであり、その刹那のために日夜ああでもないこうでもない、と苦闘するのだろうが。(p.13)


先生、学生たち、近所の人たち……筆者と関わりを持つ人々がそれぞれ実名で登場し、生き生きと動き回り、ドイツの生活が描かれていきます。筆者自身の喜び、悩みが率直に綴られます。

真摯で周囲の信頼を集めていたオーストラリア人の元ルームメイトのこと、
リズム感に致命的な欠陥を持つのに、明るく周囲を包んでしまう性格で、舞台本番もその人柄そのままの演奏で聴衆の心をつかんで成功した韓国人学生のこと、
著名な演奏家としてのキャリアを持ちながら、引退後はステージの裏方に徹して微笑んでいるチェコ人の「おじいちゃん」のこと、
そしてもちろん、筆者を導いた恩人たちのスーパーマン(ウーマン)ぶりのこと、etc.

音楽で食べていくことの難しさを語り、そんな事情をよく知る恩人が条件のよいコンサート企画を立てて若いピアニスト達を招いてくれた経験を紹介しつつ、次のように述べます。

音楽家にとっていちばん大事なこと、それは、本番のときに降りてくる確固としたイメージ、ビジョン、そしてそれが成就するという特別な感覚を持てるか否か、である。(p.224)

なるほど。
これは、アマチュアである私にはとてもとても到達できないなあ……と思いましたよ。
また、ドイツの家庭では「ハウスコンサート」が頻繁に行われることを語り、それが音楽業界の出発点でもあり、小さな一つの象徴でもあると言います。

家々の趣向を凝らした季節のデコレーションに彩られた空間で、聴衆が一皿ずつ持参した手料理を並べて、それに手をつける前に、一時間ほど密な雰囲気の中で音楽をする喜びは格別だ。(中略)その個人的で、心温まる世界は、どんな大舞台にも勝る経験となって、私たち音楽家の励みとなり、力となっていく。そしてその営みが、着実に聴衆をつかみ、また育ててもいく。(p.235)

ハウスコンサートではありませんが、実際につい最近ドイツを訪れ、家庭の中でピアノを演奏して、と何度か頼まれた身としては、なるほど!と納得できることがたくさんありました。

ここドイツでは、お祝いを主催するのは当の本人である。祝い事は、ご馳走だけでなく招いた人たちの旅費、滞在費まで負担して行う。それに加えて、お気に入りの「音楽」を提供しましょう、というわけなのである。(p.240)

まさにまさに、私の友人のMもこの通りのことを行なっていました。彼女だけが特別というわけではなかったのだなあ、と、腑に落ちた次第です。

著者の上法さん、ググってみたら、現在はヨーロッパ人のご主人とともにオーストリア在住で、時折日本でもリサイタルをなさっているようです。なんだか、ほっとしました。

セリーヌ・ラファエル 著 林 昌宏 訳   新泉社 2017年9月刊
ダニエル・ルソー/村本 邦子 解説

(前回の記事は→こちら
題名(仏語の原題は『常軌を逸した出来事 父の暴力に耐え』)からわかるように
本書の核は、父親の虐待のありようを描くことにあります。
しかし、私としては、教師と生徒、という関係にも目を惹かれました。

例えば、パリに転居し、高額なレッスン料を課す教師のもとへ出向いた日の描写。

先生は感銘を受けた様子だったが、何か物足りなそうな表情を浮かべていた。ドマルスキー先生は、弾いたばからのショパンのバラード第一番を、自分のアドバイスに従ってもう一度弾いてくれと言った。先生のアドバイスは、わたしがそれまで意識していなかったことばかりだった。ピアノと一心同体のドマルスキー先生は、ショパンの音楽を知り尽くしていた。先生の巧みで熱い身振りは、次第にわたしの演奏を導いた。わたしたちは音楽的に波長が合った。(pp.110-111)

ここまで読んで、ああ、ついに波長の合う先生にめぐり逢ったのだな、と安堵したら、なんと文章は微妙な展開に……

ドマルスキー先生はピアノを教える才能の持ち主であり、彼の音楽に対する感性の豊かさは明らかだった。情熱をもって音楽を実績していた。一方、人間としてのドマルスキー先生、礼儀正しく笑顔を絶やさなかったものの、会ったときから名声とお金に執着した人物のように見えた。自分がプロのピアニストとして得られなかった名声を、自分の生徒を通じて得ようとしているように見えた。だからこそドマルスキー先生は、きわめて才能のある子どもか、社会的または政治的に高い地位にある親の子どもしか自分の生徒にしなかったのだ。(p.111)

辛辣です。でも、確かにそういう側面もあります。
この教師、のちに筆者の腕の内出血から虐待の事実に気づくのですが、
「世の中はそう単純じゃないよ。だけど、君がもう少し肉付きがよければ、打ち身にはならなかったはずだ」
「僕は君のお父さんのことを少しはわかっている。君はときどき心ここにあらずだからね」
と、父親側に立つのです。筆者はこれを

わたしをピアノ界の頂点を押し上げることによって、あらゆる名誉を手に入れようとしたのである。そして、わたしが犠牲になってもかまわないと判断したのだ。

と表現しています。
でも、このあたり、難しいと思います。
もちろん、この筆者が受けたような虐待は書名どおり常軌を逸していますけれども、どのレベルをもって常軌を逸していると判断するのか、だれが判断するのか。。。
ここでは、子どもを「犠牲にする」ってズバッと言い切っていますけれども、
子どもの将来を思えばこその「愛を込めた厳しさ」との境目はどこにあるのか。。。


日本語版解説には、次のようにあります。
 虐待とは、親や周囲の大人が自分の持つ力を利用して、自分の価値観を押しつけ、子どもを思いどおりに管理・支配しようとすることである。自身にとって都合の悪い部分や受け入れがたい部分は強引に排除する。手っ取り早く身体的な暴力を用いる場合もあれば、言葉の暴力によってふだんから子どもを貶め、主体性を奪い去るケースもある。一見、暴力であるとはわかりづらい、眼差しや巧妙なふるまいによる精神的な虐待もあれば、「真綿で首を絞められるような」と表現されるように、愛情という名の下に行なわれる欺瞞に満ちた加虐行為も少なくない。(中略)
 子どもの主体性を尊重するということ、それは、ひとりひとり違う子どもの多様な個性を受け入れ、そのたびごとに大人が自分自身の世界を広げていくことを意味する。子どもをありのままに受けとめ、子どもの存在を慈しむことができれば、自分の小さな世界に子どもを閉じ込めるではなく、子どもの世界に合わせて自分の世界を広げる喜びが得られることだろう。(p.255 下線はby PIO)


子の考えや行動の甘さ・間違いに気づかせ、正しく導く、ということと
親にとって都合の悪い部分を強引に排除する、ということの線引きを間違えずに
ちゃんと子育てするって、難しいと思います。
おそらく私は親失格です。
虐げるつもりはなかったけれど、きっと「眼差しや巧妙なふるまい」で虐待していたのだろうなあ、そうやって、子どもの主体性、やる気を奪っていたのかなあ、と思いました。

誤った子育てで子どもが成人に達してしまった場合、もう取り返しはつかないのでしょうか?
本人が苦しんでいる場合は、いろいろなサポート機関もありますけれど、
本人いたって幸せそうに、でも何の意欲も持たず、明るく引きこもっている場合って??
どうすればいいのかわからずにいるバカな親です。

セリーヌ・ラファエル 著 林 昌宏 訳   新泉社 2017年9月刊
ダニエル・ルソー/村本 邦子 解説

昨年12月20日に、この本のことがNHK朝のニュースで紹介されました。
たまたま著者インタビューの最後の方だけを見たのですが、まずこの書名の副題
「ピアノレッスンという拷問」
に驚愕。
そして、著者の言葉
「親は、子供を後ろからそっと支え、よじ登れる木のような存在であってほしい」
に衝撃を受け(おそらく私はそんな親ではない)、読んでみました。
20180119book
正真正銘の、虐待の記録でした。
父親の、娘に対する虐待です。
彼が満足する完璧な演奏ができなければ、鞭で打つ、閉じ込める、食事を与えない、
レッスン帰りに美容室に寄って坊主頭にさせる、
ピアノ以外のことを徹底的に制限する、10歳で日に7時間以上の練習を課す……

「ピアノを娘に与えるのは、自分の過去の傷を癒すことだったのだ」
と描写される筆者の父は、生活に困難を極めた移民の子として生まれ、
父親からきわめて過酷なしつけ……いわば虐待……を受け、期待を背負わされつつ、それを乗り越えて、社会的地位を得た男性。

筆者の妹が生まれ、早産で障害のあった赤ん坊に手をとられた母親が、
それに嫉妬して駄々をこねるようになった筆者に困り果てて、
彼女の世話を父親に託したところから、悲劇は始まったようです。

ちょうど8歳の誕生日にピアノのコンクールに出場し、
「他の出場者は全員、どう見ても私の倍の年齢」という場で、
ベートーヴェンのピアノソナタ第21番「ワルトシュタイン」を演奏して優勝。
コンクール優勝の美酒を経験した父は、虐待をますますエスカレートさせていきます。

虐待シーンの割合がかなり高くて、辛かったです。
生命の危険を覚えても、母や妹のことを慮って、第三者にはなかなか話せない筆者。
虐待を告白しても、紳士然とした父親の爽やかな弁舌に、筆者側の嘘を疑われ、
「ミュンヒハウゼン症候群」(周囲の関心をひくための行動に走る虚偽性障害)という診断までされてしまう
……筆者は「虐待は貧しい家庭でしか起こらないという思い込みの犠牲」になったと表現しています。

ついに14歳で校医の支援を受けて父の虐待を通報、
辛い施設暮らしを経て、17歳で医学部進学のため両親の家に戻り、
18歳で医学部に入学、妹と二人暮らしを始め、博士号取得、児童虐待撲滅運動でも活躍。

読後感。
筆者の有能ぶりに脱帽。
印象的だったのは、第4回エトリンゲン青少年ピアノコンクールの、次の描写。

私の次に演奏したのは、わたしより二歳弱年上の中国人の小さな男の子だった。彼は舞台に上がるや緊張した素振りなどまったく見せず、プロのピアニストがやるように聴衆に仰々しくお辞儀した。その姿に会場から笑いが漏れた。その男の子は、ピアノ椅子の高さを調整することもなく、座るや否やリストの「タランテラ」を猛烈な勢いで弾き始めた。会場にいた全員はあっけにとられた。難曲ばかりを見事に弾きこなし、最後はリストの「ハンガリー狂詩曲」で締めくくった。会場全体が感動に包まれた。お調子者の彼は、ピアノ椅子から立ち上がると聴衆に深々と挨拶し、今度はアンコール曲を弾こうとした。会場からはまたしても笑いが漏れ、鈴の音が鳴り響いた。

ああ、これは……と思った通り、……ランランでした(ランラン優勝、筆者第3位)。
実は私、本書を読みつつ、父親の指導での苛烈な練習といえばランラン……と思っていたので、びっくりした次第。
でも、ああそうか、と思いました。ランランは、楽しんでますよね。常に。

まだまだ思うところはあったのですが、それはまた稿を改めて。

山中伸弥 平尾誠二・惠子 著  講談社 2017年10月刊

20171218book
2012年にノーベル生理学・医学賞を受賞した、iPS細胞の権威、山中伸弥氏、
ラグビー界のヒーロー、2016年10月に癌で死去した平尾誠二氏。
異なる世界のトップに位置するお二人は、「四十代半ばを過ぎてから」出会い、そして「男同士の友情を育み」、平尾氏の癌が判明してからは、まさに家族のような、見方によってはそれ以上の信頼を寄せあい、ともに病に立ち向かったのでした。

第一部、山中氏の回想、
第二部、平尾夫人の回想、
第三部、二人の出会いとなった雑誌対談

という構成。
第二部で紹介されている山中氏の言葉、そこに込められた想いの深さに心動かされました。
「人間には塩分も必要だし、この病気の患者さんは絶対に痩せていくので、野菜だけでなく肉や魚もしっかり食べさせてください」
「平尾さんの病気を知った時に、僕は号泣しました。声を上げて子供みたいに泣きました。そんな僕が、平尾さんを治したい一心で思い直したんです。絶対にこの病気に勝ってやる、自分の全力をかけて治してあげようと。その僕か言うことを聞いてください。」
(オーガニック野菜食の民間療法を始めた夫人に向けて)

「本当にそれは言わないでください。一緒に闘えて幸せです。」(「お忙しいのに申し訳ありません」という夫人のメールへの返信)

そして、神戸医大の大学生時代に3年間、ラグビーにのめり込んだという山中氏自身による、平尾氏評。

 平尾誠二の闘病生活は、究極の試合でした。ワンプレー、ワンプレーが結果を左右する極限状態の試合を、彼と一緒に闘っているような感じでした。(中略)
 肝臓の状態が悪くなると、体の中にはいろいろな有害物質が増えてしまうため、ちょっと怒りっぽくなったり、おかしなことを言ったりすることもあり得るのですが、彼の言葉や考え方は、元気な頃とまったく変わりませんでした。
 僕に弱音を吐くこともなく、「絶対に闘うんだ」と常に前向きでした。


ただ、すごいなあと思います。
私なんて、日々、愚痴だらけ、愚痴まみれ。
そして、私にガツン、と来たのは、平尾氏が残した次のフレーズ。

「人を叱るときの四つの心得」
――プレーは叱っても人格は責めない
――あとで必ずフォローする
――他人と比較しない
――長時間叱らない

「ボスザルの条件」
――親の愛情を受けて育った
――雌ザル子ザルに人気がある
――離れザルになるなどの逆境を経験している

そして、夫人による平尾氏評。
普通のサラリーマン家庭に育った普通の人だったけれど、大事に育ててもらったのだろうな、ということが改めてわかります。(中略)本当に健全な家庭に育った人でした。
だから、自分の子供たちにも「健康だったらええんや」と多くを望みませんでした。

…………わが身に刃を突き付けられた気持ちになりました。

森まゆみ著 集英社 2009年4月刊
20171203book
このところ読んだ本では、
ヴァン・クライバーン(チャイコフスキー国際コンクールの初代優勝者)
イリーナ・メジューエワ(ロシア出身で日本で活躍中のピアニスト)
エフゲニー・キーシン(誰もが知る実力派ピアニスト。ソ連生まれ)
と、
ソ連、ロシアづいていた勢いで、あら、おもしろそう……と借りてきた本です。

著者とお友達3人組がシベリア鉄道でロシアを旅する楽しいエッセイ??
なんてノリで借りてしまいましたが、全然違いました。
なんともずっしり、文学&歴史を紐解く、内容が凝縮された本。。。学術本の趣も。
なにしろ、中身が複雑です。

まず、筆者自身の①の旅程を綴りつつ、その間に②を挟み込むという構成。
(①東京―ウラジオストクーモスクワーパリ:2006年8月末~9月末)シベリア鉄道
(②成田ー大連―長春ーハルビン:2007年10月31日~11月初旬)東清鉄道

しかし、実は、筆者自身の旅よりも、
シベリア鉄道で実際に日本からモスクワ、パリへと旅した、次の女流作家たちの足跡をたどることを第一目的とした本なのです。

A:与謝野晶子(1912年)
 パリに留学に出した夫・鉄幹を追って(7人の子を日本に残しての一人旅)。33歳。
B:中條(宮本)百合子(1927年) 
 女友達と旧ソ連に滞在後、家族と合流するためにモスクワからパリへ。27歳。
C:林芙美子(1931年)
 夫公認の恋人を追って。または「放浪記」の著者ならではの旅心による一人旅。28歳。

よって、話は筆者自身の旅になったり、作家たちの話に時代が飛んだり~それも3人が入れ替わり立ち代わり~といった具合で、読み手としてはかなりプレッシャーを感じました。

全体として文学、政治、社会背景の話が多いですが、音楽にまつわる記述も少し。
印象に残った点を挙げてみます。
日本とロシアって、歴史的に見ても交流が深いんですね。
そして、日本にせよ、ロシアにせよ、文学者と音楽家って、交流を持つものなんですね。

(1)筆者が出会ったウラジーミルさん(1947年シベリア生まれ)と日本の歌謡曲
若いころは極東防衛隊にいて、よく日本のラジオ放送を聞いたよ。日本には本当なきれいな曲があるんだね。それに世界中の美しい曲に日本語をつけて歌ってる。器用なもんだ。音楽はいい。」(p.116)

(2)中條百合子と小野アンナ(バイオリニスト)の交流
中條百合子が湯浅芳子と護国寺の近くで共同生活を始めた1925年ごろのこと。

(3)モスクワにおけるトルストイとラフマニノフ等の交流
トルストイの家博物館~郊外のヤースナヤ・パリャーナ。文豪レフ・トルストイ(1828-1919)が冬を過ごした家~についての記述
広い邸は木立に囲まれ、夏だって居心地はよさそうだ。一階の食堂ではチェホフ、オストロフスキー、レーピンらと共に過ごし、二階のホールではスクリャービン、ラフマニノフ、リムスキー・コルサコフがピアノをひいた。」(p.178)


驚いたのは、次のようなところ。

・共産主義が廃れた2006年当時のロシアにおいては、ロマノフ家の人々を崇める気運、ロシア正教会の復権が目立った。

・ブルジョワの百合子(父中條精一郎は京橋・明治屋の設計者。子ども時代には久野久子にピアノを習う。中條家は1920年代に一族挙げて渡欧旅行する経済力があった)と、庶民階級の芙美子(芸者と馴染んだ父と離れ、母キク、養父沢井と三人で各地を行商して歩いた結果、幼少時よりすっかり旅ぐせがつく)は、シベリア鉄道の列車でも、パリ滞在中も、金銭感覚やふるまいがかなり違う。

・与謝野晶子は、傍目には実力も人望も失っていく鉄幹(そんな鉄幹に対する啄木の嘆きが残る)と添い遂げ、「長男光は慶応を出て医者に、次男秀は東京帝国大学を出て外交官になり、三男驎は同じく東京帝大を出て満鉄に」といった具合に、子だくさんの中、子どももまっとうに育った。

・第二次大戦で戦勝国となったソ連だが、戦死者数は日本とはくらべものにならないほど多い。ベラルーシも同様。

そして何よりも、
明治から昭和初期にかけて、多くの日本人がシベリア鉄道経由で渡欧しており、その中には少なからぬ女性もいたという事実に、びっくり。
さらに、21世紀になって、その行程を日本留学中のアリョーナ、柳という通訳担当の学生を伴って踏破したという筆者の行動力に脱帽でした。

↑このページのトップヘ