PIOピアノ雑記帳

ピアノ、クラシック音楽関連の話題を主とした雑記帳blogです。

カテゴリ:【書籍レビュー】 > 新書・解説本

実は私、コロナ禍以来、ネット上の匿名参加ピアノ・サークルに所属していまして、毎月、月末までにその月の「お題」に沿った小曲を仕上げる努力をしています。
で、先月の月末、お題である
「暗めの曲」「重い曲」
に沿った、サクっと仕上げられる曲を探してみて行き当たったのがこちら。
  • チャイコフスキー作曲『四季』より 10月 秋の歌
いやいや、10月じゃなくて11月だから!
とは思ったものの、
「メイン部分が短調だし、暗めでいいんじゃない? この曲、昔、好きでよく弾いてたし、今年の日本は今、まさに、やっと秋だし。」
ということで、決定。
実は、先月は広島行きなどもあってバタバタしていて、曲探しを始めたのが既に月末。
たまたま、
  • 12月 クリスマス
を友人宅で開催予定のクリスマス会で弾いてみようかな、と思い立って、この曲集を開いたついでに「秋の歌」に出会ったという経緯だったのでした。
そんな事情で、なつかしく譜面をめくっているうちに疑問がいろいろ湧いてきた私。

(1)10月「秋の歌」とは、紅葉のロマンティックな季節では?なぜ曲集の中で一番暗い曲調?
(2)11月「トロイカ」とあるが、雪のそりといえば11月なのか?早すぎないか?
(3)5月「白夜」とあるが、ロシアでは本当に5月が白夜なのか?

そこで手に取ってみたのが、こちらの本です。

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著者: ロシアフォークロアの会なろうど
出版社: 東洋書店新社
頁数: 234P
発売日: 2018年06月01日

いや、嬉しいことに、音楽学の研究者で、ラフマニノフ講座の講師としてお姿を拝見したこともある、一柳富美子氏による「音楽歳時記 チャイコフスキイ≪四季≫」というコラムがありました。
そこには、なんとこの曲集の12曲各曲についての丁寧な解説が。

おかげさまで、上記(1)(2)(3)の疑問がすべて解けました~。
その部分を抜き書きします。

(1)ロシアの十月は雨や冷え込みなど悪天候に見舞われることが多く、「秋の歌」と題されてはいるが、すでに「黄金の秋」は過ぎ去り、チャイコフスキイはすべての生命が無に帰る寂寥の秋を描いた。「ここではすべてが緩慢で陰鬱で沈痛でなければならない」とは≪四季≫の名演を残したピアニスト、イグームノフの言葉。

(2)初雪が降り、気温が氷点下になると、ロシアの人々は俄然元気になる。死の後には必ず新たな誕生が訪れる。すべての生き物はそうして命を繋いできたのだ。だから、悲劇の頂点たる十月の次は、新しい冬の訪れと民衆の喜びが音楽によって具現化されている。

(3)いくら広大なロシアでも、5月に白夜はありえない。つまりここでも白夜は文字通りの明るい夜ではなく、暗く重たい冬の夜から完全に解放された自由な気分の象徴としての白夜、エピグラフにあるように一気に芽吹いた新緑の芳香と5月の新鮮な夜、あるいは間もなく訪れる本当の暮れない夜への期待感などが表現されていると考えるべきだろう。

納得。
他はざっと斜め読みしただけですが、衣食住の季節ごとの伝統なども解説されていました。

表題に掲げたものは、書名ではありません。
最近、立て続けに、斎藤幸平氏の著作物を読んだなかで、印象に残った言葉です。
ちょうど、NHKでも、この問題について桑子アナウンサーが海外まで取材に赴かれてました。






私が読んだのは次の3冊。
  1. ゼロからの『資本論』 NHK出版 2023年01月10日
  2. ぼくはウーバーで捻挫し、山でシカと闘い、水俣で泣いた  KADOKAWA 2022年11月02日
  3. 人新世の「資本論」 集英社 2020年09月17日
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破天荒に要約してしまえば、、、
  • 1.マルクスの『資本論』を、みなさん誤解してますよ!彼の若いころの『共産党宣言と、未完に終わった『資本論』の一部だけから彼を判断してはいけません! ソ連や中国の共産主義は、マルクスの思想とは別個のものです。マルクスは、資本主義について突き詰めて研究し、その搾取の結果と対策まで見通してました。メモが残るだけのため、今まで看過されてきましたが、もう一度、彼の思想を見直すべきです!水や森林、あるいは地下資源といった根源的な富を「コモン」としてみんなで持続可能な形で管理する社会を、改めて作っていきませんか?
  • 2.みなさん、研究者なんて、机上の空論をふりかざしているだけだと思ってバカにしているでしょう?それは重々承知していますので、実際に2年をかけて現場を体験してきたものをルポします(初出は新聞連載)。そして、ウーバーイーツ配達員の悲哀を味わい、自然と共生する生き方を模索する若者たちを知り、過去に学ぼうとしない政策に怒りを覚えました。新しい世の中を目指す動きの胎動は、地方の住民運動として始まっていますよ。
  • 3.「人新世」は「ひとしんせい」と読みます。Anthropoceneの訳で、 人間たちの活動の痕跡が地球の表面を覆いつくした年代、まさに現代です。気候変動を止めると称し、政府や大企業はSDGsを謳ってますが、実はSDGsは目下の危機から目を背けさせる効果しかありません!マルクスの思想を読み解いて、「脱成長コミュニズム」を目指しましょう!

いやもう、共感したんですけれども、具体的に今の私に何ができるかというと、ううむと考え込むばかりです。電気、使いまくってるし。
スぺインのバルセロナが「脱炭素社会」を目指すと宣言し、市民の力を結集した具体的な都市計画を発表して、実際に動いているとは初めて知りました。

斎藤幸平氏、テレビ番組のコメンテーターとしても活躍中と友人から聞いたので、そっち方面もチェックせねばと思っております。

翻訳は芸術だ!……ということが腑に落ちました。深いです。
小説の原文の文章は楽譜と同じ、という指摘にどきっ

著者: 片岡義男、鴻巣友季子
出版社: 左右社
価格: 1836円
頁数: 224P
発売日: 2014年07月15日
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はるか昔の海外在住時のこと。
本中毒の私、日本語の本は高すぎる!と、英語の小説もちょくちょく読んでいたのでした。
その中に「赤毛のアン」もあった記憶が。。。
片岡義男&鴻巣友季子の両氏による翻訳を比較するというコンセプトの本書、
収録作の一つである「赤毛のアン」の共訳は、楽しみに読めそう!……な~んてわくわくしていたのは、実に甘い考えでございました。

「赤毛のアン」冒頭だという英文を見て、わたくし絶句。
なんだこれは?わからないではないかっ!
私、少女の頃に日本語訳で読んだ記憶をたどりながら、英文斜め読みをしていたに相違ありません。恥。

ところが、片岡&鴻巣の両氏たるや、実に鮮やかに翻訳されながら、心理の描写vs目の前の景色の描写、とか、英語と日本語の視点の扱い方の違いとか、どんどん深い話へ。
おそれいりました。

さらに、カポーティの『冷血』との比較に及び、音楽と小説との共通点という話題にまで発展。
片岡氏曰く
小節の文章は一本の長い棒。言葉のつながりによって、先頭はどんどん遠のいていく。楽譜と同じ。

それを受けて鴻巣氏曰く、
楽譜には様々な音楽記号(フェルマータ、カンタービレ、リタルダンド……)が記されている。小説の文章の原文にも、見えないけれどそうした用語のようなサインがひそんでいる。
翻訳者は勝手に加速したり、止まったり、音を大きくしたり、してはいけない。適切なテンポで進まないといけない。ジョコーソで本気で悲痛になったらしてはそれこそこっけい。

わわわ。「ジョコーソ」が出てくるとは!
鴻巣氏、音楽にもかなりお詳しいと見ました。
そして、翻訳を手掛けるには、こういう感性が求められるというわけですね。

(片岡氏が冒頭1パラグラフを読んだだけで曲想が分かるというのは、)優れた音楽家が楽譜を見るとある部分でだいたいわかるのとおなじでしょうかね。字、言葉の並びかたが規定してくる「曲想」というものがあると。(by 鴻巣友季子 p.138)

僕がここ(カポーティの翻訳)で学んだのは、文章は論理であり、そこには前に向けた動きがあるということ、そして翻訳者はその動きに加工を加えてはいけないということでした。(by 片岡義男 p.140)


巻末の「あとがき」では、こういう感性にのっとった見事な「日本文学の英訳」が示されています。
アーサー・・ビナードによる、金子光晴の詩「富士」の英訳(最後の5行・『日本の名詩、英語でおどる』より)が、それです。
雨はやんでゐる。
息子のゐないうつろな空に
なんだ。糞面白くもない
あらひざらした浴衣のやうな
富士。

the rain has let up. Overheard
the sky is empty, our son nowhere in sight.
This is shit, and top of it all,
there’s Fuji, looking like a faded old bathrobe.

実は私、このシリーズ三作目にあたる『翻訳、一期一会』の方を先に読んでからこちらに戻ってきたのですが、この第一作、まったく古さを感じさせない充実の内容で、驚嘆いたしました。はい。

著者は1979年生まれ。肩書は「東京工大科学技術創生研究院未来の人類研究センター長」。
この本は、著者が「テクノロジーの力を借りて何かができるようになる」という経験に着目して、
現在進行形の研究成果を上げている5人の科学者/エンジニアを相手に、人間の体とテクノロジーの関係をテーマに対話した記録です。
登場する研究者の1人が、ピアノの最適な練習法を研究・発信している古屋晋一氏と知り、読んでみました。

著者: 伊藤亜紗
出版社: 文藝春秋
価格: 1760円
発売日: 2022年11月28日

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本書の構成は、以下の通り。
  • プロローグ:「できるようになる」の不思議
  • 第1章:「こうすればうまくいく」の外に連れ出すテクノロジー~ピアニストのための外骨格(エクソスケルトン)
  • 第2章:あとは体が解いてくれる~桑田のピッチングフォーム解析
  • 第3章:リアルタイムのコーチング~自分をだます画像処理
  • 第4章:意識をオーバーライドするBMI(ブレイン・マシン・インターフェイス)~バーチャルしっぽの脳科学
  • 第5章:セルフとアザーのグレーゾーン~体と体をつなぐ声
  • エピローグ:能力主義から「できる」を取り戻す
古屋氏の担当は第1章
私、彼の発信には度々接してきたのですが(→セミナー受講記録Webセミナー)、
今や、「ガンダムのモビルスーツのようなグローブ型の外骨格(エクソスケルトン)」という器具が登場。なかなかインパクトのある装置です。
これを手に装着すると、指が勝手に動き出し、プロの演奏者の動きを自分の指で体験できるとのこと。これを契機として「あ、こういうことか」と納得し、それまでできなかった指の動かし方を楽々とマスターする奏者も多いのだとか。

ただ、全員がマスターする、とは言えませんし、この動きがあらゆる場面に適用可能なわけでもないのが肝。
常に同じ動作をする「機械的な再現性」ではなく、環境に応じてやり方を即興的に変える「変動の中の再現性」が必要とのこと。

第2章では、桑田真澄氏の体の動きを見ていくことにより、本人は「同じように投げている」と意識している動きが、実はそのたびに大きく異なっており、それでも必ずストライクであるという結果は出している、ということが明らかに。
動きの実際と、本人の考えとは、一致しないのです。

第3章では、テクノロジーの典型と思われる「録画データ」をもとに"事後"指導を行っても、効果は薄いことが指摘されます。
そして、実際の試合中に選手が装着したカメラが撮影しているデータを、画像処理によって即座に「指導に使える」画像に変える技術が登場したとのこと。

第4章では、脳が「無意識下でとらえた誤差を自動的に処理」していることが語られます。
本人が意識しないところで勝手に調整される、勝手に動く……それでは、意識的に能力を獲得する過程とは?ということで、「しっぽを動かす」実験へ。脳を決められたやり方で活動させることができたら動く「しっぽ」が映っているディスプレイを前に、奮闘する被検者たち。その過程は面白いです。

長くなったので、このへんで切り上げます。
学術研究と、現実社会への貢献との関係という側面からも、非常に刺激的な内容でした。

本日、Googleにアクセスしてみてびっくり。
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杉浦千畝、日本のシンドラーとも呼ばれる元外交官。
日本政府の指示に背いてまでも、彼個人の判断においてリトアニアでユダヤ人たちに日本のビザを発給し、6000人以上の人々を救ったと言われます。
ちょうど、彼のことを本で読んだばかりだったのでした。


エヴァパワシュ=ルトコフスカ、アンジェイ・タデウシュロメル 著
彩流社  334頁   2009年05月刊
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『ショパンを嗜む』で、平野啓一郎が推薦していた本です。
この本の第5章「第二次世界大戦中の諜報活動における協力」に千畝のことが出てきます。

1939年8月末、リトアニアのカウナスに現れ、独ソ両方を観察するのに絶好の地点として選ばれたこの場所に、領事代理として日本公館を開設した人物ーーそれが杉原千畝(1900-1986)である。

この部分の見出しが「カウナスー-杉原千畝とポーランド諜報機関」。

そう。
千畝の主な任務は情報員としての仕事であって、カウナスはポーランドの諜報員との接触の場であったのです。

これこそが、日本とポーランドとの関係を象徴しているともいえそうです。
このあたりのこと、本書の冒頭に置かれた序文(ポーランド語版へのもの。1995年)で明快に述べられています。
印象的だったのが、著者ロメルの日本滞在時(1960-62年)、当時の日商岩井副社長(創業者の孫)が語ったという言葉。

私と同世代の人間、特に国に仕えていた者、中でも高級軍人にはポーランド語を話す人がたくさんいることに気づかれることでしょう。日本とポーランドは、ロシアによって一万一千キロも隔てられている両極のようなものです。私ちちは生来の同盟者です。

そして、もう一か所。著者自身の記述部分です。

強調しておかなくてはならないのは、戦前のポ日間の外交関係と軍事関係が両国の友好的態度と、日本にいたポーランド人、ポーランドにいた日本人に対して示された親近感によって特徴づけられていたことである。

なるほど~。
私も、幼少時からポーランドに対して親近感を覚えていたのです。
なぜかなあ……と考えてみると、おそらくは、ショパンに対する憧れと、伝記で読んだキュリー夫人への尊敬の念、が出発点かなあ。

そして、日本とポーランドが外交を結んだのは、第一次世界大戦後、ポーランドが独立した1919年。今年で国交100周年なのですね。

本書、日本留学経験も持ち、日本文化を専門の一つとするワルシャワ大学の教授エヴァと、
ポーランドの「鉄鋼王」タデウシュ・センジミル(1894‐1989)と懇意だったビジネスマンで、日本とポーランドの関係に関する未公開資料を入手したロメルとの共著です。
「日本語、日本文化」研究者と、
資料入手に欠かせない人脈を持つ元ビジネスマンとが、タッグを組んで著した書。

構成は以下のとおり。
第1章 日露戦争以前
第2章 日露戦争
第3章 1920年代
第4章 1930年代
第5章  第二次世界大戦中の諜報活動における協力

情報量が半端ないので、印象に残った点のみ箇条書きで。
  • 日本に渡った最初のポーランド人は、イエズス会士ヴォイチェフ・メンチンスキ(1643年に殉教)。
  • 明治時代には二葉亭四迷がポーランド文学を日本語に翻訳し、ポーランドでは1896年に為永春水『いろは文庫』が重訳で出版されている。
  • 日本陸軍参謀本部の遣欧使節で情報将校の草分けである福島安正将軍は、1890年代にはすでにポーランドの独立運動家たちと関係を結んでいた。彼は在ベルリン日本公使館付き武官(1887-1892)の任期を終えると、愛「凱旋号」に乗ってベルリンを出発。ウラジオストクまで488日(!)かけて1万4000キロ(!)の「単騎」帰国の途についた(2/11ベルリン出発、2/18ロシア領内へ、2/24ワルシャワ到着。ここまで550キロ以上!)。
  • 福島に有益な情報をもたらしてくれたのがポーランド人志士〈愛国者)、すなわち武力闘争によるポーランド独立を目指していた熱烈な反ロシア派だった。
  • 当時、ロシアは日本の諜報活動を知っていたが、ロシアを脅かすには足りずと判断。福島の「騎手としての手綱さびきの巧さ、大胆さ、忍耐強さ」に感服し、彼の旅を支え、歓待した。
  • ポーランド独立運動といっても、急進派、穏健派、と一枚岩ではなく、そのうちどの人々と協力するかという点で、諜報員や政府関係者の中でも意見が割れた。ポーランド独立運動員側も、日本からの資金援助を引き出そうと奔走しており、ベルリンの福島には急進派、ウィーンの駐オーストリア日本公使(大久保利通の次男)には宥和派、ロンドン全権公使にはポーランド社会党が接触を図り、対立する運動には資金援助をしないようにとも働きかけていた。
  • ドイツよりロシアに宥和的な民族主義連盟の代表・ドモフスキと、ポーランド社会党のピウスツキがそれぞれ別経路で日本入りし、日本で鉢合わせして驚くという事態も。このときの日本の印象を、ドモフスキは次のように書き記している。
日本の勝利ーーそれは万人の認める物質的な力に対する道徳的な力の勝利である。(中略)
日本は偉大でならねばならず、未来永劫生き長らえねばならないーーそれをそのすべての息子が望み、そのためならすべてを投げ打つ覚悟がある。この熱意、すべてを捧げるという心構えーーそれこそがまさしく日本の財産であり、強さの源であり、勝利の秘訣なのだ。

  • 第一次大戦(1914-1918)中、日本は協商国(連合国)側に立って参戦、勝利。米英仏伊とともに五大国の一員となり、山東のドイツ権益、マーシャル群島、マリアナ諸島、カロリン群島の99年間の委任統治を認められた。このとき、日本がポーランド独立について発言することはなかった。
  • 1918年春、日本は米英仏とともに、シベリアに出兵。口実は、ロシア軍に投降したオーストリア・ハンガリー軍俘虜兵によって編成されたチェコ軍団(反乱を起こしてシベリア鉄道沿線を東進し、ポリシェヴィキ政権を崩壊させて地方政府を樹立していた)の救援で、日本は英米仏の10倍の戦力を投じたが、作戦は失敗。チェコ軍団の中にはポーランド人師団もあった。
  • ポーランド・ソヴィエト戦争終結後、シベリアのポーランド孤児たちの引き上げに際しては、1920年〜1921年に計375名が東京に、1922年7月、8月に390名が大阪に到着。著者は「日本から寄せられた温かい真心と心遣いは、「シベリア引き揚げ者」の記憶に深く刻まれ、その行動や考え方に影響を与えた。滞日経験は彼らの新たな精神と社会観の源となり、彼らは帰国後もずっとそれを育みつづけたのである。」と書く。
ふう。本日はこのへんで。
続きをまとめる気力があるかどうか。。。💦

ときには音楽ネタから離れて、読書記録。
『妊娠小説』『文章読本さん江』の著者、斎藤美奈子の最新作となれば、読むしかありません。


斎藤美奈子 著 岩波新書1746   2018年11月刊行

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明治期からの近代文学は、極論すれば「ヘタレな知識人」を描く作、そして私小説。
そこから出発して、1960年代以降の同時代文学を俯瞰しています。

目次
  1. 1960年代 知識人の凋落   描く対象がヘタレな知識人から会社員へ ポスト私小説=旅行記『どくとるマンボウ航海記』『天国にいちばん近い島』 三島と川端の死 
  2. 1970年代 記録文学の時代  大宅賞 ノンフィクションと歴史小説 王道私小説『火宅の人』『死の棘』
  3. 1980年代 遊園地化する純文学 『なんクリ』『キッチン』 そして村上春樹&龍 ポスト私小説はタレント本 
  4. 1990年代 女性作家の台頭 格闘する単身女性を描く 高村薫 宮部みゆき 川上弘美 角田光代 小川洋子
  5. 2000年代 戦争と格差社会 ケータイ小説の興隆 人格の二重化(『インストール』)現実の直視
  6. 2010年代 ディストピアを超えて 『何者。』『コンビニ人間』ブラック企業が真のプロレタリア文学に 介護小説 原発事故後の世界を描くSF小説

本書のスタンスは次のようなもの。
  • 作家たちが「文壇」を形成していた近代文学の時代とは異なり、今は「白樺派」「新感覚派」などのグルーピングは無理な時代になっている。
  • 「純文学に未来はない」などと言われつつ、小説は書き続けられているし、1970年代に大きな変化が起きたとも言える。
  • 同時代の小説について、作家よりも作品を、純文学以外(エンターテイメントやノンフィクション)も視野に入れて論じる。

正直に言って、読んだことのない小説が多々取り上げられていて、結構疎外感を覚えました。
60年代生まれの私、学生のころは前時代の近代小説を読むことが多く、同時代小説ってあまり読んでこなかったのですよね。
で、本書の前半でギブアップしそうになったころ、次のフレーズに超共感。

<格差社会について>
2000年代の格差社会の困難は「がんばれば報われる社会」ではない。上り坂の時代に青春時代を送った人には、そこが理解されにくい。
林真理子『下流の宴』
筆者評:よくできた小説ではありますが、これは古典的な立身出世ないし階級闘争の物語であって、同時代の格差社会に対応しているとはいえません。高度経済成長やバブルを経験した人と、そうでない人とのジェネレーション・ギャップは意外に深い。一念発起してなんとかなるなら、話は簡単なのです。(p.212)

 
がんばって最後まで読むことにしました。
小説を論じた箇所ではありませんが、次のような社会認識にも激しく共感。

震災および原発事故と安倍政権は一見関係ないように見えます。しかし、両者は底のほうでつながっている。震災で大きなショックを受けた有権者は「どこか不安な元野党」ではなく「強いリーダーのいる元与党」を選んだのです。
3.11と安倍政権の誕生はこの国の雰囲気をやんわりと、しかし確実に変えました。マスメディアは政権の顔色をうかがうようになり、雑誌や書籍を含む出版界では排外主義的な言説が幅をきかせ、過去の歴史の解釈を否定する歴史修正主義がはびこる。(p.221)


こうした社会に続々と登場したのが、「覚悟して読む」ことが求められるディストピア小説群です。

<ディストピア小説の純文学について>
純文学は、被害者、被災者、被爆者を描くばかりで、「その先」を示さない
→ますます読者が離れる
純文学は人を救わないオープンエンディングをとることで、一定の芸術性を保ってきた。その結果
現実に傷ついた人は「涙と感動」を求めて『世界の中心で、愛をさけぶ』に流れ、ディストピア小説ではなく『永遠の0』を選んだ。読者の劣化を嘆くのは本末転倒でしょう。厳しい時代に、厳しい小説なんか誰も読みたくないからです。(p.259)


「過労死」「ブラック企業」など21世紀の過酷な労働環境を描く作、高齢化社会の介護小説、3.11後の震災小説……といったディストピア小説群、私自身は読んでいません。確かに重いものは読みたくないという心理が働いているような気もします。
『コンビニ人間』の村田 沙耶香の最新作『地球星人』はまさにディストピアで、ヘビィすぎました。もう書評も書きたくないです。

そして、最後の最後になって出てきた章が、まさに私にヒットいたしました。
<国際化する日本語文学>
第二言語として日本語を学んだ人々が書く日本文学、
さまざまな要因で軽々と国境を越えて生活している人々が書く日本文学。

わたくし、いま人気の「チコちゃん」ではありませんが、日本人に喝!(「ぼーっと生きてんじゃねえよ!」)を入れたくなることが多々あります。
  • 「日本は単一民族国家」と未だに考えている日本人、
  • ともに生活するマイノリティーに気づかず、無意識のうちに彼らを差別している日本人が、
「なんと多いことか!」
ってね。

文学~国際化した日本文学~が、そんな状況を打破するきっかけになるかもしれないな……なったらいいな……などとも思いました。

落合陽一 著 PLANETS/第二次惑星開発委員会 2018年6月刊行

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図書館に予約して、ずいぶん待ちました。今も予約者が数十人。人気なのですね。
落合陽一氏の本、これで3冊目ですが(→『日本再興戦略』 『10年後の仕事図鑑』
今回の本がもっとも広い視野に立った、壮大なスケールの内容でした。
実は、読み終えるのに年をまたいでます。

「デジタルネイチャー」の向こうに
高齢者、身体障碍者と健常者という分類がなく、個々人が多様性を維持しながらも快適に過ごせる社会
を目指すとありますが、
そういえば、本書にも載っていた、
耳で聴かない音楽会 2018年4月22日 東京国際フォーラムにて開催
は、私もニュースで見ました。

音楽でいえば、コンピュータと人間のコラボが既に実現しているとのこと。
デジタル技術を応用した現代曲の作曲は、もはや当たり前ですが、
『Human Coded Orchestra』という、指向性スピーカーによって「合唱の制御」を実現するシステムが既に完成。聞こえてきた音を真似て歌うだけでハーモニーが成立する「コンピュータによって演奏された人間の合唱」ができるんだそうです。


さて、本書の内容です。
まず、各ページの左端に列挙される「注」の深さに驚嘆。

本書では人類・人間・ヒト・人という言葉が頻出するが、「人類」は進化論的存在、「人間」は社会的存在、「ヒト」は生物学的存在、「人」は文化的存在、という意味で使い分けている。(p.15 注8)


こんな感じ。専門用語もたくさん。
そして、古代文明から中世欧州、現代デジタル技術に至るまで、縦横無尽に語られる教養に、それも、自分なりの視点で消化したうえで、自論の根拠として提示してくる、しなやかさに圧倒されました。

シラーの言葉を引用して、
植物は余剰エネルギーを大地に還元するが、動物は余剰エネルギーを運動に転換することで、自然界の物質的束縛を断ち切り、より自由になるべく姿を変えていくと詠った。(p.16)
と述べ、
その「余剰エネルギー」という言葉を用いて、この本では
「計算機的余剰」から出現した〈新しい自然〉について論じるのだ、と高らかに宣言するのです。


内容が多岐にわたっているので、以下、かなり乱暴に、恣意的に、抽出・要約します。
私がびっくりしたのは、以下のような点です。
  • 〈言語〉が人間と社会を根底で規定するという思想は、終焉を迎えるだろう。そもそもこれは、20世紀初頭にヴィトゲンシュタインによって見出された新しい思想。
  • 近年の計算技術の発展は、言語を介在せずに現象を直接処理するシステムを実現しつつある。
  • 計算機の「0と1」で情報を処理する方法は、動物の神経細胞の情報処理と同一(類似?)で、理にかなっている。言語に頼る必要はない。
  • イルカとクジラは地上から海に戻り、海中で超音波によるコミュニケーション――インターネットに近い情報伝達ツール――を用いている。2000万年かけて、非言語的で非物質的なコミュニケーションを獲得したと考えられる。
  • それなら、インターネット以降の我々が言語から現象のコミュニケーションに移行するのも、進化論的な必然かもしれない。
ひいい。
言語が消えるのですか!……と、語学教師の端くれである私は驚嘆したのでした。
で、
  • 「非言語的直接変換システム」のパラダイムでは、二項対立の原理に立つ西洋思想は役に立たない。東洋文明の古典の知見が、計算処理の繰り返しの末の自然的未来を予見していたかのよう。
  • 厳しい修行や極限的思考の末に到達する精神的な「悟り」ではなく、神経系を模した人工ニューラルネットによって、東洋文明の古典の知見が機械の内部に統計的に生成されつつある。

ということに。
で、人間とコンピュータは、どちらがどちらを支配する、という発想ではなくて、まさに同一のレベルの存在として共存し、両者にとっての「最適化」の道を探りつつ進化していくであろう、と。

  • 今、この世界にはタンパク質をベースにしたプロテイン型コンピュータ、すなわち「生物」と、半導体素子のもととなるケイ素をベースにしたシリコン型コンピュータ、すなわち「コンピュータ」が共存している。
  • コンピュータがもたらす全体最適化による問題解決、それは全体主義的ではあるが、誰も不幸にすることはない。全人類の幸福を追求しうる。
  • 前世紀の全体主義が「人間知能の民主主義に由来する全体主義」だとすれば、これは「人間知能と機械知能の全体最適化による全体主義」および「〈デジタルの自然〉を維持するための環境対策」である。

さらに、<人権>という発想は、西洋の二項対立理念から生まれた<欺瞞>であるとか、いろいろ…。
  • 将来は、西洋的なピラミッド構造ではない、東洋的再帰構造からなる「回転系自然なエコシステム」が形成されるはずだ。
  • 機械と人間が構成する「新しい<自然>」の発明は、現在の世界の枠組みを超越しうる。「新しい<自然>」は共有されるべき新しいビジョンなのだ。
このあたりが、落合氏の主張のツボかと。
あ、コンピュータが暴走して人間を殺しにかかる、というSF映画によくあるパターンは発生しないんだそうです。
なぜなら、人間の寿命80年は、インターネットの寿命(おそらく数千年)にくらべて短すぎるから。「人類よりはるかに長い寿命を持つインターネットは、私たちの人生には直接関わりを持たず、寿命単位で区切った世代的なスパンでしか人間を認識しないだろう」ということで。
スケール感、半端ないです。

最後に、p.255-256を丸ごと引用。

  • 我々はディスプレイを通じて、直接目にしていないものを<現実>と信じ、同時にコンピュータグラフィックスや特撮を<虚構>とみなす。映像メディアには、このような排反的なリアリティが常に付いて回る。
  • それに対し、デジタルネイチャーでは<実質>と<物質>の区別が超越され、我々の身体とつながるすべての現象が、唯一の<現実>として受容される。計算機によるヒューマンインターフェースの外部で、<虚構>と<現実>が溶け合う世界。そこではあらゆる存在が、魔術的な振る舞いをするようになるだろう。それは事事無碍(じじむげ)として包括され、自然を構築し、寂びたプロセスの中に美を見出す。

なるほど。
難解ですけど、あれこれ、びっくり満載の本でした。

新井紀子 著 東洋経済新報社 2018年02月刊行
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上の画像に書いてあるコピーは、この本の本質を見誤らせます。
「人口知能はこんなに進んでるぞ!」と煽る本では、まったくありません。 

AI (人口知能 Artificial Interigence) つまり、人間と同等レベルの能力のある知能は、いまだ存在していないのです。現在、メディア等で氾濫している「AI」とは、「AI技術」のことで、知能そのものではないのだとか。初めて知りました~。

確かにAI技術はここ数年で格段に発達しました。
Siriにつかれる音声認識技術、自然言語処理技術などが身近ですし、つい先日は、画像認識技術で、医者には見つけられなかった病気をAI技術で発見できたとか、ニュースになっていました。
でも、これらの認識力のアップは、
  1. 人間が「これを覚えなさい」という形に加工した教師データを大量に覚え込ませる(医療診断の画像認識などはコレ)か、
  2. 教師データに加工しない生のデータを、まさに膨大に覚え込ませる
という方法をとったうえでのディープ・ラーニングで獲得されるとのこと。
でも、これらには落とし穴が。。。

1.の場合は、「教師データ」の作成に異様に手間がかかり、しかも、もし画像データの精度が上がって従来の画像と異なったりすると、また「覚え込ませ」を「1からやり直し」しなくてはいけない、ということに。

2.の場合は、例えば大学センター試験に答えさせるために150億文の英文を学習させても、英会話完成の四択問題の正答率すらさほど上がらなかったのです。AIは、覚え込んだ英文との一致度を検索して正答を導こうするのですが、問題によって異なる文脈や状況の「意味」は全く読み取っていないのですから、それも仕方がないでしょう。

「こんなのは、センター英語特有の不自然は英語ですよ。これで点数を出したかったら、センター英語で日英対訳データを100万持って来てください。」(p.94)
という機械翻訳の若手研究者の言葉、衝撃的です。これは無理なので、1の方法を諦め、2の方法で取り組んだけれども、やはり無理だった、ということですね。
特許翻訳用に造られたAIは旅行翻訳では使えないし、旅行翻訳用に造られたAIは国際会議では使えないのです。

でも、上記以上に私の印象に一番残ったのは、日米の差でした。

【日本の場合】
  1. 日本は「失敗に学ぶ」という姿勢がない。臭いものには蓋をする。1982年に立ち上げた「第五世代コンピューター」に国家が500億円以上を投資し、論理による自動診断や機械翻訳の実現を目指したが、手ひどい失敗に終わった。このときの「失敗」のデータが全く残っていない。「こんな夢を実現したい」という話や、「実は第五は成功した」と強弁する報告書のみで、どこで判断を誤り、どこで失敗したかの記録は皆無。
  2. 上記の失敗後、「羹(あつもの)に懲りてなますを吹く」かのように、国はAIのプロジェクトを封印。予算も出さない。
  3. 日本は基本的にモノづくりの国。開発費を上乗せした価格で製品が売れる見込みがなければ、新機能は搭載できない。しかも製造物責任を負う必要もある。この開発費を企業が負うことは不可能に近い。
  4. しかも、製造現場の工場は、すでに世界最先端のロボット化してしまっている。AIへの渇望度は低い。
【米国の場合】
  1. 米国の企業は日本の失敗に学び、論理的な手法に見切りをつけ、統計的手法に舵を切って、グーグル翻訳などの成果を上げた。
  2. 米国にはAIへのリアルなニーズがある。グーグル、フェイスブックといった企業が「無償サービス」を大規模に提供するには「人手をかけずにサービスを提供できる」か……例えば、ツイッターが不適切画像をAIが自動判定できるかどうか、グーグルが悪意ある攻撃を判定できるかどうか……は企業の存続にかかわる。
  3. 企業はAI開発を渇望しており、巨大な研究助成をするだけの十分な土壌がある。

日本、ヤバイですよ。
この本後半部、第3章の「教科書が読めない――全国読解力調査」の結果も衝撃的です。
新聞で有名になってしまったという問題を挙げてみると、

次の文を読みなさい。

仏教は東南アジア、東アジアに、キリスト教はヨーロッパ、南北アメリカ、オセアニアに、イスラム教は北アフリカ、西アジア、中央アジア、東南アジアに主に広がっている。

この文脈において、以下の文中の空欄にあてはまる最も適当なものを選択肢のうちから1つ選びなさい。
オセアニアに広がっているのは(   )である。
①ヒンドゥー教  ②キリスト教  ③イスラム教  ④仏教  (p.196)


結果。
中学生の3人に1人以上が、高校生の10人に3人近くが正答できなかったのです。
解答した高校生745人が通うのは進学率ほぼ100%の進学校(問題文中に出てこない「ヒンドゥー教」の選択率が非常に少ないことから、ちゃんと真面目に取り組んでいることがわかります)。
いっぽう、国語が苦手なAIは、この問題に正解できました。

ほんと、あらゆる意味で、びっくりです。
最後に、終結部に出て来る印象的な見出しを抜き書きしておきます。

  • 求められるのは意味を理解する人材
  • アクティブ・ラーニングは絵に描いた餅
  • いくつになっても、読解力は養える

池上英洋 著 ちくまプリマ―新書174   2012年2月刊

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昔、絵画は、今よりももっと「何かを伝えるためのもの」だったのであり、
「昔の人々にとっての重要な言語の一種」、コミュニケーション手段として用いる「視覚言語」だったのです。
  • 言語を学ぶには辞書が必要なように、昔の芸術作品を”読む”には、失われて久しいコードを再び手にする必要がある。(コードの再発掘「図像学(イコノグラフィー)」)
  • 絵を読むツール① スケッチ・スキル 短時間でイメージを略図化する。
  • 絵を読むツール② ディスクリプション・スキル 視覚情報を言語情報に変換する。
こういう手続きで、絵の「読み方」を解説してくれます。
いろいろと、目からウロコ、でございました。

背中に羽をはやした天使ラファエルが道案内をしている、よく見る図柄は、「金貸しの息子が天使に守られて旅をする」姿を描いたもので、金融業を営む富裕な商人層の親の安心のため、だったとか、

カトリック教会は、偶像崇拝を禁じたプロテスタントに対抗して、絵画の持つ力を最大限に活用……信者が感動するような「感情移入の力」にたけたのがカラバッジョであり、教会をまばゆいばかりの空間にプロデュースしたベルニーニである……とか、
(このあたり、ちょっと前に読んだ、バッハとルターの関係→なんかも思い出されました)

商人が力を持ち、商人層が社会の中心を構成したオランダであったからこそ、市民生活を小さなキャンバスに描き出すフェルメールという人物が脚光を浴び、活躍できた、とか(もっと言えば、オランダだからこそ、一般市民のしかも女性が手紙を読み書きしたりしたのだ、とか)。


静物画というジャンルに骸骨とか、死んだ動物とかが頻出するのも、私にはどうにも腑に落ちなかったのですが、字が読めない人々にも「いずれ訪れる死を思って、日々をよりよく生きよう」というメッセージを送るという意図を持つものだったのですね。なるほど。

今年の5月に訪れたドイツ、ワイマールで「バウハウス」美術学校を訪れた私ですが、この学校の偉大さもやっとわかりました。ここ、フォービズム、キュビズムの発信地として名高かったのですね。

絵画を色彩と形態という構成要素の集合体とみるなかば科学的な見方は、ほぼ同時期にドイツでさかんになった表現主義とも共通します。クレーやカンディンスキーらは、バウハウスという美術学校において精神的なものの視覚化、諸芸術の理論化などに挑戦しました。(p.178)

さらには、現代という時代の特性にも納得。
  • 今は、プロとアマの区別が失われていく時代である
  • 識字率が低い時代において絵画が最大のメディアだったような、伝達手段としての必要性が失われつつある。美術は、当初与えられていたような存在理由をほとんど失い、純粋に趣味的表現の場、事故表現のツールとなっている。
なかなか深~い内容をわかりやすく記述した、まさに優秀な「西洋美術史入門」でございました。

加藤浩子 著  平凡社新書830   2016年11月刊

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なんといっても、カラーでたくさんの名画が見られるのが嬉しいです。
たとえサイズは小さくとも。なんとも太っ腹!

あとがきによると、「名曲アルバム」のCDに付属するマガジン(ディアゴスティーニ社!)に連載したエッセイをまとめたものとのこと。
すべてのエピソードが、絵と文章を合わせてコンパクト(4ページほど)に収められていて、読みやすいです。

足を運んだ美術展でちょこちょこと仕入れは、すぐに忘却の彼方へと去っていくミニ知識やエピソードをまとめていただけて嬉しい、という側面と、
おお、そうでしたか!初めて知りました!という側面の、両方がありました。

前者については、
フェルメールとオランダ市民生活、シューベルティアーゼの仲間たち、ショパンとサンド、印象派と浮世絵の関係、ミュシャからムハへ、等。
後者については、
「憧れていたワーグナーに会えて有頂天」だったルノワールが徐々にその熱を冷ましたこと、マーラーの妻アルマが「芸術家たちに火をつけるミューズ」として「空前絶後の存在」であったこと(ココシュカという画家を初めて知りました)、シェーンブルクとカンディンスキーが親友同士であったこと、黒船来航時、ミンストレル・ショーの様子を三代歌川豊国が「船中狂言図」として描いていること、イプセンの戯曲を元にした「ペールギュント」をめぐってムンクとグリーグが仕事を共にしていたこと、等々。

ずっと時代を追って読んでいくと、
芸術家の葛藤といえば、かつては王族と仕える者という身分の差や、宗教画と現実世界との対立などであったものが、時代が下って一市民として生きるようになるにつれ、自らの恋愛や親子関係のどろどろ問題、芸術上の主義主張の対立へと移ってきたように感じました。
最後のエピソード、シャガールでは、彼の晩年を支えた20歳年下の妻が、シャガールの息子とその母の存在を夫の伝記から消してしまったことを扱っているのが象徴的かと。

改めてゆっくり読みなおしてみたいな、と思わせる本でした。

吉見俊哉 著 岩波新書1726    2018年9月刊

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表紙を開けてすぐの巻頭言(?)には、
シェークスピアの「リチャード3世」からの抜き書きが掲載されています。

計画はもうできている。でたらめな予言や、悪口を書いたビラや夢占いで、恐ろしい序の幕はもう切って落とされている。兄王エドワードと次兄クラレンスとが、お互いに不倶戴天の憎悪を抱くようにしてやるのだ。

なるほど。兄王エドワードをアメリカのエリート層に、次兄クラレンスをアメリカの労働者階層に読み替えれば、今のトランプ政権そのままでは?

本書、2017年9月から18年6月まで、ハーバード大学で教えた筆者が、実際に肌身で感じたトランプ大統領(2017年1月に就任)の世界を描いたもの。
大学のシステム表層だけを真似したって根付くはずなし!
という大学関連に話題については、特に目新しいもの無し。

へええ~っと思ったのは、
トランプ政権への怒りが草の根で結びついて、新たな動きを生んでいるという指摘。
銃規制に反対し続けるNRAを糾弾する「#BoycottNRA」運動が、NRAに様々な便宜を提供してきた大企業を追い詰め、わずか数週間で数多くの企業がNRAへのサービス打ち切りへと動かしたとのこと。(第4章 性と銃のトライアングル)

また、アメリカに住んでこそわかる、肌感覚の社会にも、へええ~でした。
公共サービスがガタガタになっていて、郵便は届かない、道路はガタガタ。
仕事への「誇り」を維持できなくなった現実に絶望した労働者たちが、耳に心地よいトランプのスローガンに惹きつけられて彼を支持しており、スローガンと現実のズレには気づこうとしない。(第5章 反転したアメリカンドリーム)

そして、このくだり。

トランプは「アメリカ、ファースト」と選挙戦で叫んだが、少なくともアジアではそれと正反対のことが起こる。アジアで「ファースト」の地位をますます確立していくのは、アメリカではなく中国である。中国は、その経済力はもちろん、政治力から知力や軍事力まで、アジアの覇権国家への道を歩んでいる。そのなかで日本はなおアメリカに媚び、すがり続けることにより、ますます存在感を弱めていくかもしれない。20世紀を通じ、アメリカは一国であると同時に世界であった。この二重性が、トランプ時代を機に解消されていくかもしれないのである。(第6章 アメリカの鏡・北朝鮮 p.220)

日本、大丈夫か?

倉橋耕平 著  青弓社 2018年2月刊

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サブタイトルが「90年代保守言説のメディア文化」。
90年代とは、
1989年にベルリンの壁が、91年末にソビエト連邦が崩壊して冷戦体制が瓦解。91年に湾岸戦争が、93年にユーゴスラビアの紛争などが勃発。一方、朝鮮半島の分断や台湾海峡危機など東アジアの冷戦状態は継続されていた、という時代。
このころ、韓国や台湾が経済成長を遂げて政治的に民主化していく中で、日本軍「慰安婦」だった人が補償を求めて声を上げ始めたわけです。

日本国内では、上記の「慰安婦」問題について
強制連行を示す資料さえなければ軍と政府の関与は何ら問題にならないし、問題とすべきではない(する必要がない)(p.25)
というスタンスが生まれます。これが
歴史的事実を歴史的ストーリーの解釈論にすり替える戦略 = 歴史修正主義
と言えるわけです。それには次のような特徴がみられるとのこと。

・特定の歴史的事件の「是認」「極小化」「正当化」「否定」といったレトリック
・その事件が「あってよかった」「被害者はもっと少ない」「合法的だった」という主張
・何者かの「陰謀」により被害妄想的なデータが独り歩きしたという主張

具体的には、
戦後50年にあたる1995年の「村山談話」に反発した知識人・文化人らが、1997年に「新しい歴史教科書をつくる会」を発足させたこと、
小林よしのりの漫画『ゴーマニズム宣言』のヒット、保守派の雑誌で盛んに上記の歴史修正主義が論じられたことなどを指します。

実は私、「歴史修正主義」という言葉の意味自体をうまく把握できていなかったので、こういう状況整理で言葉の意味が腑に落ちたことが一番大きい収穫でした。

本書が検討の対象とする日本の歴史修正主義は、復古主義的な側面が強く、戦前日本を賛美しようとするために、「大東亜戦争」を「自衛戦争」と位置付けることでその戦争の「侵略」「加害」を否定する方向に議論を進める。それゆえ自動的に、植民地だった国と地域や日本軍が侵攻した近隣諸国との間に軋轢が生じる。(pp.21-22)

さて、社会学・メディア文化論・ジェンダー論を専門とする筆者は、
メディア研究の中でも見落とされがちだった1990年代(1920~70年代の「教養」を論じるのが人気だとか)に焦点を当て、この時代の議論が、現代のヘイト・スピーチやいわゆるネトウヨの活動につながるとして、自己啓発本・ビジネス本と言われる類の一般書籍、論壇誌・総合雑誌・オピニオン誌と呼ばれる月刊や週刊の雑誌、マンガ、新聞を分析対象に、本書を著したわけです。

ふう。かなりの字数を使ってしまった。。。
ということで、結論は本書をお読みくださいませ。

印象に残ったのは、
語られる内容を攻撃しても意味がない。
語る場が、その場の論理が、アカデミックの世界とは異質なのだから。相容れないのだから。
という点。

オピニオン誌などで声高に語っている人々は、アカデミックな肩書を持ってはいても、語る内容は「専門外」のことであって、エビデンスを示す等のアカデミックな手続きを経ていないのです。
そこに読者を巻き込んで、自分たちの共通の場を創り上げ、仲間をどんどん増やしていく……自己増殖、それが目的。それに役立つ戦略はどんどん取り込む。
普通なら、アマチュアも専門家も、お互いに参照し合い、刺激し合う関係が築かれているのですが、
こと「歴史修正主義」を語る非専門家たちには、歴史学を参照しようといった意識自体がない。

なるほどね~と思いました。
アマチュアも専門家もなく、自由に発信する時代。
いろんな教訓が読み取れそうです。

生活リズムが狂った感ありの私。またもやヘンテコな時間に目ざめてしまい、
「そうだ!これを機に浜コンのアーカイブを聴こう!」
と思ったのですが、……残念。アーカイブは「coming soon」の表示だったのでした。
海外のコンクールでは、演奏終了後すぐにアーカイブにアップ!なんてこともありますが。

ということで、スイッチを切り替えて、読書記録アップ。


大澤 聡 著(鷲田 清一/ 竹内 洋/ 吉見 俊哉/ 述) 筑摩選書 2018年5月刊
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メディア論、思想史を専門とする大学教員であり、批評家でもある著者(1978年生まれ)が、教養主義の来歴、現在、未来をめぐって、3名の相手を選んで対論し、考察した記録です。

「はじめに」には
最新の知識をマニュアル化するハウツー路線でもなければ、教養の有無をパフォーマティブに確認しあう共同体路線でもない。そのどちらにも与しない路線の選択。つまり、教養の中身ではなく、それが成立する条件やフレームの点検作業をとおして足場を組みなおすこと。教養主義の性急なアップグレードでもリバイバルでもなく、じっくりリハビリテーションからはじめること。それがこの本のミッションだ。
と、この本の目的が端的に示されています。
ネット検索するだけで、さっさと情報にアクセスできる現代、
「教養」というものの意味、価値が今までとは変わらざるを得ないことは自明。
なかなか示唆に富む本でした。
以下、ざくっと、思いっきり恣意的にまとめてみます。

  • 第1章 現代編「現代的教養」の時代(鷲田清一×大澤聡)
自由というと、自分をさまざまに絡めとってくる制度から解き放たれるようなイメージがあるが、自由とはむしろ自分が生きていく上でのコンテクストを自ら編んでいけること。
「こらえ症」と「わくわく」を併存させながら新しい教養を設計する必要がある。
  • 第2章 歴史編 日本型教養主義の来歴(竹内洋×大澤聡)
かつて、教養主義を獲得するという行為には仲間集団の外にいる者を排除する機能があった。
教養主義の崩壊とは、ようするに、おれはあいつらとはちがうんだという差別化戦略が立てられなくなっていくプロセスでもある。
大学での教養文化は1980年代に消滅。
かわりに、高度消費社会においてファッションなど別分野での差別化競争が進んだ。
  • 第3章 制度編  大学と新しい教養(吉見俊哉×大澤聡)
いま必要なのは「対話的知」。
大学にゆとりがあった時代には存在した、グループ知のようなものが衰退しつつある。
個々の関心にだけそってオタク的に行う学問には、対話の生まれようがない。
  • 第4章  対話のあとで  全体性への想像力について
「修養主義」明治期 → 「文化的教養」大正期 → 「政治的教養」昭和戦前期 →「大衆的教養」昭和戦後期  に続く現代日本の教養のあるべきモデルとして
「対話的教養+現場的教養」を提案


1980年代に大学を卒業した私、昔ながらの流派……自分よら上にいる人間に並び立ちたいという欲望に属する「教養主義」……の最後の尻尾をかじったことになるんだなあ~と妙に納得した次第。
息子と価値観が共有できないというのも、ある意味、当然なのかもしれませぬ。

今の大学が、なかなか「知」の創造の場となり得ないのは、
明治期に導入したドイツ型システムの上に、戦後、アメリカ式システムを無計画に建て増しししてしまったことが一因……という説明にも妙に納得。
これを抜本的に変革しなくてはいけない!というのは正論なのでしょうけれども、ううむ、実現、実践がほんとうに可能なのかどうか。。。

今後、対話的教養教育の実践の場として、アートが注目されていく……という流れは、確かに出てきそう。
主に美術や演劇が取り上げられていましたが、音楽にも将来性があるんじゃないかな~。

堀江貴文 落合陽一 著  SBクリエイティブ 2018年04月 刊
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著者の二人の対談記録のようですが、実際に話し合う形式ではなく、
節ごとに発言者(書き手)を変えて、相手の発言を引用、相手に反応しつつ進めていくという形式の本。
タイトルとは裏腹に、
「未来のことなんて、だれにわかるものか!現在をしっかり生きろよ!」
という強いメッセージの内容でした。

印象に残った箇所の抜き書きを。


「没頭」さえしてしまえば、あとは知らぬ間に好きになっていく。(p.56堀江)

僕たちがなすべきこと。それは社会の慣習や常識にとらわれて打算に走りすぎることではなく、自分の「好き」という感情に、ピュアに向き合うことなのだ。(p.60堀江)


AIの時代は古代ローマに似ているかもしれない。古代ローマには奴隷制度が存在したが、その役割をある程度AIが果たすというわけだ。
「研究」のルーツも、古代ローマかギリシャの貴族層が余暇時間をつぶすためにはじめたことにある。ほかにも音楽など、貴族が考えることは大体が遊びを元にするアートの追求だ。(p.69落合)

(「根性と写経の世界」という自らの表現の意味するところとは…)
努力することそれ自体が美しいという考え方が優先されコストパフォーマンスが極めて悪い前時代的な就職活動の世界のこと。(p.72落合)

みんな問いが間違っている。あなたが問うべき対象は未来ではなく他でもない、「自分」だ。自分が求めているものは何か、やりたいことは何か。今この瞬間、どんな生き方ができたら幸せなのかを真剣に考え抜けばいい。自分の「これが好きだ」「これがしたい」という感覚を信じ、それに従って下した判断を、誰のせいにもせず生きる。
そして、価値のゆらぎを恐れない。むしろ変化するのは正常だ。毎日、瞬間ごとに自分の判断を更新していくべきなのだ。その覚悟があれば、未来予測などしなくていい。あなたは、とにかく「今」の自分を信じればいいのである。(p.236堀江)


何も、何一つ、没頭するものを見つけられずに、日々時間つぶしと睡眠に徹する若者ができあがってしまったような場合、やはり責任を負うべきは親なのだろうなあ……と、深く、深~く反省した次第です。

落合陽一 著 幻冬舎 2018年1月刊

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ご活躍ですね。落合陽一氏。
図書館のデータによると、
<落合/陽一> 1987年生まれ。メディアアーティスト。筑波大学学長補佐、大阪芸術大学客員教授、デジタルハリウッド大学客員教授。JST CREST xDiversity代表。

この本を知ったのは、ヴァイオリニストの郷古廉くんのツイッターによって、でした。
  • 彼は刺激的だなあ!芸術分野に於ける人体の動きは、テクノロジーの極致だと思う。音楽の分野で技術と音楽性を区別して考える慣習があるのは大きな勘違いで、膨大な練習量、研ぎ澄まされた感性と判断、客観性等あらゆるものを注ぎ込み、それら全てが魔術化されたところに究極の美がある。(2018年5月9日)
落合氏の制作アート展を鑑賞してのつぶやきだったようです。
で、そのハッシュタグによりこの本を知ったのですけれども、予約待ちすること3か月。やっと順番が回ってきました。
が、時期的に私の方の余裕がなく、熟読はできず。
印象的だった箇所のみ抜き書きします。本論よりも、その手前の序論にほうに目が行ってしまった私です。


西洋的思想と日本の相性の悪さ
  • 西洋的思想の根底に流れるものは、個人が神を目指す、全能性に近づいていく思想です。(p.37)
  • それに対して、東洋的思想とは、一言で言うと、自然です。日本人は、どこまで行っても自然の中にある同質性・均質性にひもづいています。
  • つまり、これからの日本人にとっては、西洋的人間性をどうやって超克して、決別し、更新しうるかがすごく重要なのです。過去150年ぐらいにわたって日本が目指してきた、西洋的人間観と文化との齟齬に、どうやって戦いを挑むかという問いに直面しているのです。(p.38)
で、どうすればいいかというと…
  • 「個人」として判断することをやめればいい
  • 「僕個人にとって誰に投票するのがいいか」ではなく、重層的に「僕らにとって誰に投票すればいのだろう」「僕の会社にとって、誰に投票するのが得なんだろう」「僕の学校にとって、誰に投票するのが得なんだろう」と考えたらいいのです。個人のためではなく、自らの属する複数のコミュニティの利益を考えて意思決定すればいい
なるほど、確かにこのほうが行動しやすいですね。発想に馴染む感じ。

【「ワークライフバランス」から「ワークアズライフ」へ】
  • ワークとライフを二分法で分けること自体が文化に向いていない
  • 日本人は仕事と生活が一体化した「ワークアズライフ」のほうが向いている。無理なく、そして自然に働くのが大切
教育に関しては
  • 今の近代社会を成り立たせる全ての公教育とはほぼ洗脳に近い。
  • 我々は中途半端に個人、自由、平等、人権といった西洋的な理念を押し付けられた結果、個人のビジョンがぼやけてしまった。
  • 今の教育は、「やりがいややりたいことがない」という自己否定認識を持った歪んだ人間を生み出す。要は、欲しいものをちゃんと選ぶとか、自発的に何か行動するということを練習しない。ガマンするように指導するのに、好きなものを見つけることが重要だと言い続けるのは大きな自己矛盾。(p.51)

うー。わが身を振り返って猛省。
いつかは自発的に動き出すだろうと傍観したのが間違いだった、家庭教育。もっと強権発動するべきだった。外部の専門家に相談なんてしなきゃよかった。「押し付けてはいけません」的な助言に従うべきではなかった。
でも、そもそも彼の個性を見抜けなかった、それに寄り添えなかった親が諸悪の根源。



何を読んでも、すべて自分への批判に見えてならない昨今。
そうして私は音楽に逃げる。
仕事に逃げる。
犯罪者かも。

森博嗣 著  朝日新書402  2013年5月刊

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  • 第1章 仕事への大いなる勘違い
  • 第2章 自分に合った仕事はどこにある
  • 第3章 これからの仕事
  • 第4章 仕事の悩みや不安に答える
  • 第5章 人生と仕事の関係

第1,2章で目を引いたのは、次のくだりぐらい。

 質素な生活ができる人は、ときどき適当に働いて、のんびり生きれば良い。贅沢な生活がしたい人は、ばりばり頑張って働いて、どんどん稼げば良い。いずれが偉いわけでもなく、片方が勝者で、もう一方が敗者というわけではない。
 人それぞれに生き方が違う。自分の道というものがあるはずだ。道というからには、その先に目的地がある。目標のようなものだ。まずは、それをよく考えて、自分にとっての目標を持つことだ。
 「成功したい」と考えるまえに、「自分にとってどうなることが成功なのか」を見極める方が重要である。(p,94)


なるほど。
「できるだけラクをして生きること」が人生の目標、それが自分にとっての成功。
「今の生活、ラクでいいじゃん。ラクができなくなったら、そのとき考える」
と思い定めてしまったような人には、やる気を出させること自体、やはり無理でしょうか。

第3章がおもしろかったです。
世の動きを的確にとらえているなあ、と思った箇所を挙げます。
入れ物や仲介じゃないぞ、中身だぞ!に共感。
レンタカーの宅配という発想、宣伝、メディアの現状になるほど。

 一方、コンテンツを作り出す仕事は滅びることはない。新聞もテレビも、危ないのは新聞社とかテレビ局というハードであって、ジャーナリズムとか、エンタテインメントを創造するソフト面では、まだまだ生き延びられる。これからは、メディアではなくコンテンツの時代だと思って間違いない。 
 これは、製造業と消費者が直接ネットで結びつくことにも通じる。商品を右から仕入れて左へ売るという「店」というハードが、どんどん不要になるだろう。(p.110)

 田舎に住んでいると、どうしても自動車が必要だけれど、これだけなんでもネットで買えるようになれば、その自動車もいらないのではないか、と思えてくる。どうしても必要なときだけ、レンタカーをネットで注文して、自宅の前まで届けてもらえば良い。(p.120)

 商品が売れて売れて困る、生産が追いつかないほどだ、というときには宣伝などしない。宣伝費を使う必要がない。そういうときには、次の商品を開発することに専念した方が得策だろう。もし商品の売れ行きが落ちてきて、品物が余っている状態ならば、これは宣伝をする価値がある。値段を下げることも効果がある。したがって、「最近よくこの宣伝を見るね」というものは、「売れていないのだな」と受け取ればまずまちがいない。(p.125)


第4章から、これはいいな、と思った部分。
そのとおり。共感です。

 人生の選択というのは、どちらが正しい、どちらが間違いという解答はない。同じことを同条件で繰り返すことができないからだ。(中略)どちらでも正しいと思える人間になると良い、というのが多少は前向きな回答になる。(p.146)

 やりたいことがあったら、どうしてやっていないのだろうか。時間がない、という言い訳を考える暇があるなら、やれば良いと思う。やりたいことというのは、寝るよりも、食べるよりも、優先できるはずだ。(p.158)。


第5章から。

 人生のやりがい、人生の楽しみというものは、人から与えられるものではない。どこかに既にあるものでもない。自分で作るもの、育てるものだ。(p.191)

「ラクをすることが何よりも大事」
と言い続けている人に、「自分で作るもの、育てるものだ」ということの重さ、輝きを伝えることは、やはり不可能でしょうか。

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