PIOピアノ雑記帳

ピアノ、音楽関連の話題を主とした雑記帳blogです。

カテゴリ:書籍レビュー > 音楽関係の本

著者: クリスチャン・メルラン
出版社: みすず書房
価格: 6600円
頁数: 608P
発売日: 2020年02月19日

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第一部 オーケストラの奏者たち
第二部 構造化された共同体
第三部 指揮者との関係

全600頁超。辞書かと思うような分厚さです。
実家滞在中に、シコシコと読了。
筆者がフランス人だけあって、フランスを中心としたヨーロッパのオーケストラ内幕話が多いですが、少しはアジアの話も出てきます。邪道かもしれませんが、そんなところに注目しつつ、読みました。

指揮者として出てきた日本人は、次の2名。
大野和士
オーケストラのストライキについて述べる中で、次の記述が。
2005年、フランス放送フィルハーモニー管弦楽団によるシャトレ座でのヘンツェのオペラ〈バッカスの巫女〉の公演中止があり、指揮者の大野和士はわずか数日で器楽アンサンブル向けの編曲を余儀なくされた。(p.16)


小澤征爾
「ブーレーズやマゼール、小澤、メータ、サロネンに比べたら(p.450)」と、現代の一流指揮者として名前が挙げられるとともに、
指揮者がオケに錬金術のような奇跡をもたらした例として、「フランス国立管弦楽団が小澤征爾の指揮で〈ラ・ヴァルス〉を演奏したとき」のことが讃えられていました。(p.535)

一方で、
小澤征爾がボストン交響楽団の頂点に立って30年が過ぎると、もはや彼自身にもオーケストラにも進歩の余地がなくなり、人間関係にまで影響を及ぼすことになった。(p.468)
とも。
「アメリカのティンパニの皇帝」として名を馳せたボストン交響楽団のエヴァレット・ヴィック(ヴィクター)・ファースについて記述する、次の箇所にはびっくり。
1973年にボストン交響楽団の指揮者に任命された小澤征爾は、自分の任期中はファースもオーケストラの演奏を続けるという秘密協定をファースと結んでいる。ファースはこの約束を守った。彼が72歳で引退したのは、小澤征爾がボストン交響楽団を去った2002年のことだ。その後も毎年夏になると松本音楽祭のサイトウ・キネン・オーケストラのティンパニ奏者としての姿を披露している。(p.384)


個人名として出た日本人は、あと一人だけ。
マリンバにはヴィルトゥオーソとの名がふさわしいソリストがいる。アメリカのリー・スティーヴンス、日本の安倍圭子、フランスのエマニュエル・セジュルネとエリック・サミュだ。(p.398)

安倍圭子さん、私は初めて知りました。ググったところ、1937年生まれの方とのこと。大御所ですね。

日本のオーケストラとして固有名詞が出てきたのはNHK交響楽団だけでした。
それも、演奏内容を云々する箇所ではありません。
N響の演奏がラジオ放送されたのを聴いたカラヤンが、招聘され演奏していたウィーン・フィルのオーボエ奏者の音色をすぐに聞き分けた、というエピソード提供楽団として名前が出たのみです。

現在、N響で指揮をしているパーヴォ・ヤルヴィは多々出てきますが、本書の原語での出版が2012年ということもあって、N響との関わりは論じられません。
彼を評して「荒削りでも熟成の余地のあるオーケストラを好むパーヴォ・ヤルヴィ(p.462)」とあったのには、妙に納得してしまいました。


それから、1970年のエピソード(ウィーン・フィルで長く団長を務めたヴァイオリン奏者オットー・シュトラッサーの発言)として紹介されたのが、次のくだり。
(ヴァイオリン奏者の入団試験で)受験者が最高の演奏を披露したので、パーテーションをはずすと、その受験者が日本人であることがわかり、審査員は呆気にとられた。結局、その日本人は採用されなかった。なぜなら、彼の顔つきが〈ピツィカート・ポルカ〉にふさわしくなかったからだ。(p.141)

その後も、純粋な日本人はまだ一人もウィーン・フィルには入団していないとのこと(オーストリア人と日本人を両親に持つ団員はいても)。

「あ、これはあのピアニスト!」とピンときたのは、韓国のイム・ドンヒョク。最近、彼の名前を聞きませんが、かつての神童、どうしているのでしょうか。
クルト・マズアがフランス国立管弦楽団によるラヴェルの〈ピアノ協奏曲ト長調〉の終楽章の冒頭の演奏をさえぎり、激怒する場面もあった。ロン=ティボー・コンクールの受賞者のガラ=コンサートでのことだ。冒頭のファンファーレに続けて韓国人の若いピアノ奏者があまりにも速く弾きはじめたために、オーケストラの一部だけがピアノに合わせ、残りが指揮者に合わせてしまう事態となったのだ。(p.170)


なんだかゴシップのオンパレードのようになってしまいましたが、実はこの本で興味深かったのは、楽器の種類や変遷などです。

オーボエのように見える楽器が、なぜ「イングリッシュ・ホルン」と呼ばれているのか、ずっと不思議だったのですが、本来は「オーボエの5度下にあたるコーラングレ」という楽器で、曲がったという意味の「アングレ」とイギリスを意味する「アングレ」が混同された結果の間違った英語訳なのだとか。オーボエと違ってリードがまっすぐではなく肘型に曲がっているのだそうです。(p.273)

「バスーン」と「ファゴット」は同じ楽器の別名だと思っていましたが、さにあらず。
フランス系の「バソン」とドイツ系の「ファゴット」は音色も異なる別の楽器なのだそうです。でも、「いまやフランス系のバソンを用いるのはフランスだけになってしまった。」とのこと。(p.291)

ティンパニは、ヘッドをプラスチックにするか、皮にするかでの論争があるうえ、楽器の仕組みも「ペダル式」と「側面に配置されたノブを回してヘッドを張るチューニングボルト式」があり、後者を用いるのは今ではウィーン・フィルだけになってしまった、とか。(p.376)

オーケストラによって音色に差があると言われるのは、奏法だけでなく、楽器そのものの差もあるのですね。気づきませんでした。

オーケストラに占める女性奏者の割合が高くなってきていることについて、
「男性にとってオーケストラの楽団員がが経済的に魅力のある職業ではなくなっていくにつれて、オーケストラに女性の占める割合が増加している」という指摘もされているとか。(p.132)

オーケストラ一つから、いろいろな分析ができるのだなあと、社会学的な興味も覚えました。

著者: 石井宏
出版社: 七つ森書館
ページ数: 413頁
発売日: 2013年09月01日
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はい、この本の表紙の右半分の顔が、楽聖「ベートーヴェン」
左半分の顔が、その実像「ベートホーフェン」というわけです。

右半分の顔は、学校の音楽室に必ず掛けてありますよね。これ、虚像です。
本当は、真っ黒な髪の、風采の上がらない小男でした。
彼が爆発的に売れたのは、1814年「ウェリントンの勝利」という曲によってであり、この曲に合うイメージのブロマイドとして、音楽室の肖像画は生まれたのだそうです。

彼を有名にした曲は、今では誰も振り返らない駄作。
ただ、勇ましい戦争賛美曲を求める風潮の中、この曲が異例な大ヒットとなります。
それに有頂天になるベートホーフェンの姿はあちこちに書き残されているそうですが、彼も内心では傷ついていたはず。
聴衆に届けようと心を砕いて作曲したソナタや交響曲はさっぱり人気が出ず、駄作が大人気となったのですから。
以来、彼は「聴衆に届けよう」とする姿勢、聞き手への信頼を放棄し、「書きたいものを書く」作曲法へと踏み出し、後期作品を生み出していきます。

「初期」「中期」「後期」という区分のしかた、
私、いまひとつ意味するところを解らずにいたのですが、この説明には納得でした。

曲名についての情報も、なるほど、です。
「英雄」交響曲曲のアイデアは、若き日のベートホーフェン(まだ交響曲を一つも書いていない27歳)にナポレオンの部下・ベルナドットが授けたもので、のちに「ポナパルト交響曲」として書かれたこの曲、時勢を読んだ出版社が出版にあたって名前を変えた、とか(作曲家自身で変えたというのは後世の作り話)、
このベルナドット、その後フランス執政政府から駐オーストリア大使に任ぜられ、ウィーンに乗り込んできたのときの随員の中にいたヴァイオリニスト・クロイツァーに献呈されたのが「クロイツェル・ソナタ」である、とか。

私生活での恋人の話も、根拠が続々と引用されていて、読ませます。
家族については、ベートホーフェンが自分の弟の息子をその母から無理やり引き離し、手元に引き取ってひどい目にあわせたという、甥っ子のカールが、その後軍隊で認められ、遺産も手にして、ちゃんとした人生を送ったということ、その母も息子カールの死後の80代まで長生きしたことを知って、なんだかほっとしました。
そのカールの後見人たる権利をめぐる裁判記録とか、生々しくて驚きました。
ベートホーフェン、確かに性格的な問題を抱えていそうです。

このように、うんちく、なるほど納得、の情報に満ちた本です。
ただ、数文字下げて「根拠」のように提示されている部分が、出典を記した引用だけでなく、筆者が自分で書いたように読める箇所も多々あって、面食らった、ということも付記しておきます。

章立て
  • 第1章 盛名
  • 第2章 有名人の症状
  • 第3章 ゲーテとベートホーフェン
  • 第4章 女たちの影
  • 第5章 ”不滅の恋人”
  • 第6章 愚行
  • 第7章 革命的な音楽家
  • 第8章 栄冠
  • 第9章 終章・フェニックスの歌

「古本屋で、こんな本を見つけたよ~」と、友人が貸してくれた本です。
なるほど。昔は(といっても1993年刊)こんな執筆形態が可能だったんだ~と思いました。

著者: 戸塚亮一
出版社: 南斗書房
頁数:259頁
発売日: 1993年

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なにしろ、そのかなりの部分が引用なんです。
初めは、そんなことに気づかず、「なんだか翻訳文の匂いが強いなあ」なんて思っていたのですが、次の文に行き当たって、完全に頭の中が「?」だらけに。


 私たちは、ルネッサンスで復興した、中世の音楽の時代に生き、さらに当時の楽器へ作曲家が求めたものを既に知っているのです。(p.79)


え?「私たち」って、誰? 筆者って、ベヒシュタイン社の経営者ではないよね?
この疑問、あとがきを読んで解けました。

 本書の第一楽章「創立者カール・ベヒシュタイン」、第二楽章「ベヒシュタイン社クロニクル」は、ベヒシュタイン社刊行になる『ベヒシュタインの歴史・1853年から現代まで』(原文独語・1986年刊)の翻訳を基本に、筆者が多少手を入れたものです。(p.257)


へ?
そんなこと、しちゃっていいの?
少なくとも「終曲・あとがき」なんてところに、ちらっと書くだけじゃ、まずいんでは?
本文にきちんと明記すべきでは?
ちなみに、他の章を見ると、

  • 第三楽章「ベヒシュタインはこうして作られる」は、ピアノ選定のための入門書として筆者が書き下ろしたもの、
  • 第四楽章「日本におけるベヒシュタイン」は、檜山陸郎氏『洋琴ピアノものがたり』(現代芸術社刊)の引用が主体
  • 第五楽章「ベヒシュタイン・あれこれ」は、筆者があちこちの機関紙などに書いたエッセイ(ピアノとは無関係な文化比較等)や、ベヒシュタイン社のPR文を並べたもの

となっています。
びっくり。
こんな構成に「楽章」なんてつけちゃいけません。ソナタ形式が泣きます。


ま、ベヒシュタインの創設者・カールが、幼少時に父を亡くし、母の再婚相手となった義父が音楽家であったことから音楽教育を受け、実の姉の結婚相手がピアノ職人であったことが彼の道を決定づけた……などということは、初めて知りましたし、「なるほど!」と思う情報もありました。

でも、コンサート・グランドピアノとして、今、ベヒシュタイン製のピアノに出会うことはあまりないような気がします。
それより、博物館となった西洋館とか、個人宅で出会うような。
その意味で、同社製ピアノの仕組みを詳述するなら、本書が取り上げたコンサート・グランドピアノではなく、アップライトピアノとか、小さめのグランドピアノの方を取り上げてほしかったと思いました。

なお、本書でその利点が力説されていた「総アグラフ」という仕組みは、既に廃止されてしまったようです。
結局は、大ホールで要求される大音量が出ない、という点がネックになったようです。
なるほど、やはり。

著者: 石井宏
出版社: 新潮社
頁数: 486P
発売日: 2010年09月29日

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タイトルに惹かれて手に取りました。
早朝5時に目覚めて読み始め、そのまま読み続けて本日読了。
ありがとう、海の日。

バッハ、ベートーヴェン、ブラームス……ドイツ音楽を中心に論じる「音楽史」は後世からの目。実は、モーツァルト、ベートーヴェンの時代、音楽の中心はイタリアであり、オペラだったのでした!

本書の構成を見れば、述べたいことは一目瞭然。

第一部 イタリア人にあらざれば人にあらず
第1章 音楽はイタリア人
第2章 興隆するイタリア・オペラ

第二部 それではドイツ人はなにをしていたのか
第1章 イタリア・オペラに生きたドイツ人たち
第2章 栄達の梯子を登れなかった人々

第三部 全てはドイツ人の仕業である
第1章 後進国としてのドイツ
第2章 夢と成就と崩壊への道

映画「アマデウス」においてモーツァルトの敵役として描かれたサリエリも、イタリア人。
「宮廷音楽家」という地位につくには、イタリア人であるか、イタリアで名声を得たという箔付けが必須であったという時代背景があるのです。
モーツァルトの父、レオポルドが息子を売り込もうと必死になっていたころ、

劇場関係者と一言でいうが、ハプスブルクの宮廷の上級職たちはみな貴族であった。宮廷劇場の支配人もアフリージョAffligioというイタリアの貴族であった(ハプスブルク家はこの頃イタリア北部からトスカーナにかけての土地を領有していた)。平民で、ザルツブルクの一介のお傭い楽師というレオポルトの身分は、料理人や従僕と同じで、世が世ならば貴族を相手にして息まいたりできるものでもない。にも拘らず、神童の息子のおかげでウィーンの宮廷などに出入りをさせてもらえているのである。


音楽学校で音楽教育を施していたのも、イタリア。
ヴィヴァルディのピエタ修道院が有名ですが、孤児たちが手に職を持つには音楽だ、という意図のもとに。たいていの場合は世襲制である職人世界にあって、教会や貴族の邸に雇われる楽師や下働きの召使は、サラリーマンのようなもので、いくらでも働き口はあった、と。

ルネッサンスのイタリア、ですものねえ。
美術品の魅力は、皆が知るもの。
そういえば、産業革命で力を得たイギリス人が「イタリア詣で」をしてその記録を残すことに躍起になっていた、という話も、最近の美術展で知りましたよ。

また、
モーツァルトも、ヴィヴァルディも、今の世で取り上げられるようになったのは、ごく最近、一般の人々の間で人気が高まってからである、というのにも驚きました。
モーツァルトは、生誕200年の1956年以降。ヴィヴァルディは、もっと後。

作曲家たちが生きていた時代、名をあげ、栄達を遂げていたのは
ドメーニコ・チマローザ、、ジョヴァンニ・パイジェッロといったオペラ作曲家のイタリア人。
そして、
ドイツ人としてイタリア・オペラの大家となったアードルフ・ハッセ、
イギリスに渡ってイギリス人として生きたハンデル(日本では「ヘンデル」)。

この時代、音楽家が仕える相手の貴族は、ヨーロッパじゅう血縁関係でつながっている一族の一員だったわけで、そのつてでもってイタリア、イギリス、と活躍拠点を移していくことも多かったんですねえ。

ヘンデルに会おうとしたJ.S.バッハ(この二人、同じ1685年の生まれです)が袖にされた、という逸話を読みましたが、そういう二人の関係、時代背景を元に考えると、納得です。
バッハの「音楽一族」が強調されて語られる最近ですが、
そもそもあの系譜は、J.S.バッハ本人が自分を売り込むために製作したもので、実は、当時の音楽家の地位は、とっても低く給料も安かったのだとか。
でも、イタリアで箔をつけ、宮廷の楽長になると、とたんに給料が跳ね上がったとのこと。

他に「なるほど」と思ったのは、バッハの末息子クリスティアンのこと。
14歳で父を失った彼は、イタリアで修業した後、「ジョヴァンニ・クリスティアーノ・バーコ」(ヨハン・クリスティアン・バッハ)としてロンドンに現れるのです。
イギリス王室の楽長となった彼は、8歳のモーツァルトにこの地で出会います。1年半にわたってロンドンに滞在したモーツァルトは、クリスティンの指導のもとに最初のシンフォニーを書き上げ、こんな関係を築いたのだそうです。


モーツァルトは生涯にわたってクリスティアンに対する敬愛の念を失うことがなかった。あらゆる音楽家たちに対して手厳しい批判を下すモーツァルトであったが、クリスティン・バークに対する態度は例外中の例外で、その音楽のみならず彼の全人格に対して信愛を捧げ続けた。

たまたま耳に、目にしていた断片のエピソードが、つながっていくように感じた本でした。
第三部の書きぶりは、ちょっと筆の勢いが過ぎているようにも感じましたけれど、第一部、第二部は、とっても面白かったです。

著者: かげはら史帆
出版社: 春秋社
発売日: 2020年04月
ページ数:223頁

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1770年生まれのベートーヴェンと同郷(ボン生まれ)の弟子・フェルディナント・リースの人生を追う伝記。
18世紀末から19世紀の欧州音楽事情が生き生きと伝わって、お見事です。

私、いままで教科書の記述の棒読みよろしく
「フランス革命を機に市民社会が到来し、それまで宮廷に仕える者として生きた音楽家たちの生き方も変わった」
な~んて知ったかぶり的に考えていたのですが、現実の社会は、もちろん、そんな生易しいものではなかったのでしたっ!

そういうことを、このフェルディナント・リースという人物を通して体感できる内容となっています。
目次を並べてみると、よくわかります。

Ⅰモラトリアムのっ時代
1.楽園のゆりかご―-幼少期、あるいは宮廷の終焉
2.師の使命、師弟の葛藤ーー青年期、あるいはピアニストの誕生


Ⅱキャリアの時代
3.マスケット銃かピアノ科?ーー二十代、あるいは若き音楽家の冒険
4.よろこびとあきらめーー三十代、あるいはクラシック音楽の誕生


Ⅲセカンドキヤリアの時代
5.帰還から再起へーー四十代、あるいはナショナリズムの台頭
6.楽園の再生ーー最後の十年、あるいは世代のはざまで


フランス軍の襲撃を4度も受け、
そのたびに人生の計画変更を迫られたフェルディナントです。

1回目は故郷のボンで。
宮廷音楽家になるべく幼少時から音楽教育を受けて育ったというのに、
ケルン選帝侯の宮廷そのものが消滅!
さて、大事な息子、フェルディナントをどうしよう……父の思いついたことが

「ベートーヴェン家のルートヴィヒ」
かつて自分が生活を助け、ヴァイオリンを教え、『皇帝ヨーゼフ二世の死を悼むカンタータ』を作曲する機会をあたえた、あの色黒の青年ルートヴィヒ。
息子を彼に弟子入りさせたらどうだろう。

こうしてウィーンで始まったベートーヴェンとの師弟生活。
難聴に苦しみ始めていたベートーヴェンは、自分の作品をきちんと弾いてくれるピアニストが必要でもあったために、弟子をとったのでは……と筆者は推測しています。
弟子のために、きちんと道を作ってやったベートーヴェンです。

しかし、こんな生活も4年程度で終止符が打たれます。
2度目のフランス軍の襲撃。
ボンはフランス領であったため、召集令状が届いたのでした。

なんとかこれは切り抜け、故郷ボンから改めて音楽家キャリアを考えてパリに向かったものの、思ったような成果はあげられず、思い悩む彼が得たアドバイスとは

環境を変えたまえ。パリじゃなくて、ロシアに行けばいいじゃないか

なんと!当時の欧州はこういうムードであったというのです。
ナポレオンが踏み荒らしまわる環境下では音楽などできないが、北欧とロシアなら大丈夫だ、と。

直接ロシアには向かわず、いったんウィーンに戻って師ベートーヴェンに再会するも、またまた軍に召集されます。ウィーン滞在中の成人男子だというだけの理由で、今度はウィーン軍に。はい。三度目のフランス軍襲撃なり。

戦局が落ち着いたため、いったん解放された彼は、このままではまた同じ目に遭いかねないと、フランス領のボンに逃げ帰り、そこから北欧、ロシアを目指します。

そして、実際に北欧で成功をおさめ、ロシアに到着。シーズン・ツアーも成功。
ところが、ここで、チャイコフスキーの大序曲「1812年」で描いた、かの「ロシア遠征」が!
4度目のフランス軍襲撃です。

実はこれ以前、ストックホルムからフィンランドのトゥルク(当時はロシア領)に向かうバルト海上では、謎の舟の襲撃を受けてもいたフェルディナント。
なんとも波乱万丈。でも、彼自身の手紙には悲壮感はないのでした。

ウィーン、パリ―、北欧、ロシアと渡り歩いた彼は、28歳にして今度はロンドンへと向かい、そこで知り合った女性と結婚。一時はロンドンに居を定めようとした形跡もあり、「ロンドン・フィルハーモニック協会」の一員となって、ベートーヴェンを招聘しようともしています。
そう、このときの依頼を受けてベートーヴェンが着手したのが、あの第九交響曲。

当初の予定では、この第九交響曲はフェルディナントに献呈されるはずだったとか。
でも、音楽協会の内紛でロンドンを離れただけに、そういう結果にはならなかったのでした。

こうしてドイツに帰った彼は、今度は25歳年下のメンデルスゾーンと仕事上の関わりができるのですが……
あとは、ぜひ本文にあたっていただきたい。
おススメです。

著者: かげはら史帆
出版社: 柏書房
頁数: 320P
発売日: 2018年10月09日

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あとがきによると、本書は、
2007年に書いた修士論文『かたられるベートーヴェン――会話帳から辿る偉人像の造型――』をもとにしたものとのこと。
なるほど、注で出典をカバーするといった形態がとれたわけですね。
一橋大学の大学院で、こういった研究ができると言うことも初めて知りました。

で、内容です。
上記画像のセリフに、如実に表されています。
  • シンドラー「私が、あなたを守ります」
  • ベートーヴェン「押しつけがましい盲腸野郎め」
二人が出会ったのは、おそらく1822年ごろ。
ベートーヴェン51歳、シンドラー27歳。
たかだか3年にも満たないほどの期間、ベートーヴェンの秘書的立場にあっただけなのに、
彼の「会話帳」を抱え込み、自分と大作曲家の関係を、偉人の理想像を「捏造」したわけです。
会話帳を自分の手で改竄することによって。

会話帳。
聴覚を失ったベートーヴェンが他人とコミュニケーションをとるために活用したノート。
でも、その実態はというと

ベートーヴェンは聴覚を失った後も、発話には大きな支障はなかった。だから、ベートーヴェンはしゃべる。彼らは書く。大変なのは、圧倒的に対話相手である彼らの方だ。

という様子だったのでした。
ベートーヴェンの死後、捏造に邁進するシンドラーの描き方が、なんとも真に迫っています。

チョロい。実にチョロい。シンドラーは内心、高笑いだった。伝記を出版するためには自分を支持してくれるフォロワーを増やさねばなるまい。(p.162)

わお。フォロワー!
でも、そうですね。言い得て妙です。
一回の秘書が、偉大なるプロデューサーへと変貌していってしまう過程、
その「嘘」がバレていく過程、ともに面白く読みました。

そして、意外な収穫は、
  • フランツ・リストの人生も併せて理解できたこと。
リスト、ボンにベートーヴェンの銅像を建てるというプロジェクトに、
「公式」のサポーターとして颯爽と名乗りをあげたのでした。
  • 誰もが認めるベートーヴェンの伝道者ことリスト様。
  • 片や孤立無援の嫌われ者ことシンドラー。(p.232)
こんな対比がなされます。
ところが、その後、流れは思わぬ方向に。
1845年。式典当日のことでした。

「ベートーヴェンに祝福を捧げに集まったさべての国民、巡礼者としてここにやってきた人びと、オランダ人、イギリス人、ウィーンの人びとに長い生命と繁栄を」

長いフランス暮らしで稚拙になってしまったドイツ語が悪目立ちしたうえ、
「フランス人をお忘れですな!」と揶揄されて、リストははっと青ざめます。
ナショナリストを刺激するような失言に気づき、
「そういえば、私は祖国ハンガリー人も入れ忘れてしまいましたしね。」
とおどけてみせたリスト。
ところが、これがさらに波紋を呼ぶのです

ハンガリー人でも、ドイツ人でも、フランス人でもない。
故国のないピアニスト、フランツ・リスト。
それまでは羨望と尊敬をこめてリストを仰いでいた人びとの目が、いまや宇宙人を見るようなまなざしに変わった。(p.237)

この2年後、リストは華麗なステージから事実上、引退するのですが、
その背後には、この事件のトラウマがあったのでは?と筆者は推測しています。
3月革命が迫る1848年初頭、リストはヴァイマールに居を移し、
文化芸術都市の宮廷楽長に就任します。
彼の第二の人生の幕開けです。

ヴァイマールで公的な職に就く。それは、かつてこの街で宮廷顧問官をつとめたドイツの文豪、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの威光にあやかろうとする行為だった。(p.249)

なるほど~。そういうことだったのか。
ところが、この後もリストは苦難を強いられることになります。

十年の活動の末、2858年に楽長職を辞したあとは、ローマとブダペストとヴァイマールの三都市を行き来するさすらいの生活を送るようになる。宗教に傾倒してカトリックの下級聖職者に叙せられた姿は、「ドン・ファン(好色家)がスータン(僧服)をまとった」と嘲笑され、格好の話題の種となった。

そ、そ、そうだったのか。
でも、これでやっと、長年の疑問が解けました。
スーパーロックスターの若かりし日のリストと晩年の彼とが結びつかなくて、私、長年もやもやしていたんです。

わわわわ、ずいぶん長くなってしまいました。
このあたりで止めます。
なかなか内容の濃い、ぐんぐん読める本でした。おすすめ。

著者: 本間ひろむ
出版社: 光文社
価格: 924円
頁数: 232P
発売日: 2020年01月15日
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これまた、題名に惹かれて。
アルゲリッチは、もう我が子供時代からのあこがれピアニスト。
ポリーニは、ラジオで演奏を聴いてオッたまげ、1980年代の一時期、ハマってました。
私にとって、なぜ
アルゲリッチが「ず~っと」で、ポリーニが「一時期」だったのか。
この本の「まえがき」にあるように
  • 「情感豊かに感性で弾く」アルゲリッチに対し「完全無欠な演奏を披露する」ポリーニ
ということだろう、と思います。
1960年のショパコン優勝者のポリーニ(1942年1月5日~)。
次の1965年、同コンで優勝したアルゲリッチ(1941年6月5日~)。

さて、この本の内容です。

アルゲリッチについては、私、
映画『Bloody Daughter』も見ましたし、
本『マルタ・アルゲリッチ 子供と魔法』も読んでいるので、
さほどの新情報はなく。
ただ、
ショパン・コンクールに参加する前に生んだ長女、リダ・チェンの人生に驚きました。
リダの父、ロバート・チェンとは早々に破局(というか、そもそも恋愛関係にはなかった中で子供ができた……ということらしい)アルゲリッチ。
リダの親権はチェンが持ち、スイスの居住許可を得たものの、ヨーロッパに仕事のない彼には養育権がない。

その結果、リダは母親には会えず、父親の元にすら止まることができず、あちこちの家を転々としたのちサレジオ修道会の修道女たちに引き取られた。(p.62)

こんな人生の出だしでありながら、リダはその後、ヴィオラを弾く演奏家となります。

彼女は、ミッシャ・マイスキー、ガブリエラ・モンテーロといった名手たちと室内楽で共演した。もちろん、母親マルタ・アルゲリッチとも共演している。(p.114)

母親とも祖母とも会えない十代を過ごしたリダは、出し抜けにアルゲリッチの前に現れた。19歳になっていた。ファニータ(アルゲリッチの母)はエキゾチックな孫娘を見て、映画スターにしようと奔走し始める。相変わらずのファニータだ。もちろんリダは「ノー」と言い、「あんた何様のつもり」とファニータが応じた。相変わらずのファニータだ。(p.115)

リダはジュネーヴ大学で法律と音楽学を学び、音楽の道を目指したとのこと。
立派です。

あ、アルゲリッチと、シャルル・デュトワとの破局の原因、
実は、デュトワの浮気(相手はヴァイオリニスト、チョン・キョンファ!)で、
来日中にそれを知ったアルゲリッチが、日本での演奏をせずに帰ってしまった、などの舞台裏エピソードにもびっくりしました。


対するポリーニ。
アルゲリッチは、まだ幼いころから母ファニータが凄まじいエネルギーで奔走し、大物たちの協力をとりつけて音楽の道を切り拓いていったのでしたが、ポリーニはというと、

建築家である父親ジーノ・ポリーニに、ショパン・コンクールで優勝できなかったら建築家になれ、と言われていた。(p.45)

とのこと。ひぇ~っ。エリート名家の出なのだとか。
で、18歳の彼は、見事に優勝。
その後、ステージに立たなかったということは聞いていましたが、
翌年の1961年にはミラノ大学に入って、物理学と美学を学んでいたとは知りませんでした。

頭脳明晰。
ストイック。

そんな彼の息子、ダニエレ・ポリーニは1997年にピアニストとしてデビュー。
その後、指揮者としても活動を始め、父をソリストと迎えて共演も果たしているとのこと。
お見事。



番外編
序章では、中村紘子(1965年のショパコン4位)と内田光子(1970年のショパコン2位)を比較しているのですが、これが印象に残りました。

 元々外交官の娘として十代の頃からヨーロッパで暮らしていた内田と、日本で育ち果敢にアメリカやヨーロッパに飛び出していった中村とはそもそも立ち位置が違った。(p.24)

絋子氏は、ショパコン後の華やかなレセプション(この時の優勝者がアルゲリッチ)で、コンテスタントやその家族が大使館関係者などのVIPたちと和やかに談笑する中で、大きな疎外感を感じたのだそうです。
この体験が、彼女に「日本での社交界の華」となり、日本の音楽界を盛り上げるという道を選ばせたのではないか、と。

なるほど。

今年の秋、5年に1度のショパコンです。
著者は、日本の期待の星として、
絋子氏とのかかわりの深い藤田真央、牛田智大の二人を挙げていました。
予備予選免除の二人(チャイコン2位、浜コン2位という実績で)。
ただいま超人気、超多忙の藤田君は「参加しない」と明言しましたが、
牛田君はきっと参加することでしょう。
楽しみです。

著者: 青柳いづみこ
出版社: アルテスパブリッシング
頁数: 312P
発売日: 2019年11月12日

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「音楽家という職業は、衝動に突き動かされた者だけがする職業だ」

のっけから、こんな定義が出てきました。
バーンスタインの言葉とのことですが、言い換えるならば、音楽家とは

(なるべき人がなるものではない。もうならざるをえないから、それでしか生きていけないから、なってしまうもの。自分が音楽家になるべきなのだろうかという質問を自分にたいしてした時点で、もはや音楽家ではない)

ということのようです(脇園彩・メゾソプラノ)。
なるほど、皆様、音楽家になるべきかなんて悩んでなどいません。
どんどん行動していて、行動しているうちに、自然と環境が整ってしまう、自分が成長を遂げてしまう、というように読みました。

古楽ピアノとモダンピアノとでは、指導者の間に価値観の乖離(曲目を「どう演奏すべきか」をめぐって)と気づき、双方の立場の審査員のいるコンクールに「審査員の意見を統一して発表すべきだ」と助言メールを出した(川口成彦・フォルテピアノ)とか、

委嘱作品にお金がかかるので、助成金申請書はどんどん自分で書いてネットワークを広げ、共演者を増やしていく中で、新たな資金源が紹介されていくという循環が生まれる(會田瑞樹・打楽器)とか。

心酔できる先生のビデオを買って、1日8時間ぐらいずっと先生の弾き方だけを見る(本條秀慈郎・三弦)とか、「浸る」という行動も凄い力を持つようです。

インタビューでの、さりげない言葉遣いにも唸りました。
「頭の疲れはありましたけれども、体は弾けば弾くほどしなやかになっていく感じもありました」
「(体は硬いけれども)ちゃんとした立ち方、立ったときの重心を正しいところにとか、考えています」
「(腕を高く上げさせる今の弓の持ち方は)どう考えても不自然ですよね。過去の人たちはやっぱり自然な体勢で弾くっていうことを考えていたのかなと。」
で、弾き姿の変遷について調べ上げ、近年のヴィブラート過剰を指摘するに至る(佐藤俊介・ヴァイオリン)。


著者、青柳氏は
「ご自身の自発的な発想で活動している、しかも成功なさっている」音楽家を選び、話を聞いたといいます。(p.132)

何となく感じていたことではありますが、
大成する人というのは、自ら動く人のことなんだ、と改めて思いました。

川口成彦さん(→)、田村響さん(→)のお二人のピアニスト、
作曲家の森円花さん(→)、指揮の川瀬健太郎(→)さん、フルートの上野星矢さん(→等)の姿には、直に接したこともあって共感しつつ読みました。
あ、上野くんがフランスからドイツに移って以降、上唇のジストニアを患っていたなんて、全く知りませんでした。

著者: 舘野泉
出版社: 六耀社
頁数: 224P
発売日: 2013年10月26日
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世界で活躍されている、今は左手のピアニスト、舘野泉氏の著書です。
数週間前、たまたま聞いたラジオ番組に舘野氏が出演されていて、

「左手が、左半分の体が動かなくなったときね、ぼくは、別にショックは受けなかったんだよ。みんな、大変だろうって心配してくれたけど、そんなことはなかった。このときね、妻のマリアと、結婚してはじめて、ずっと一緒にいることができて、ぼくは幸せだったなあ。マリアも同じ意見で、ほんとに二人でよく笑ったよ。」

といったことを、柔らかな口調で発言されていて、私、ほんと、びっくりしたのでした。
脳梗塞で半身不随になって、第一線で活躍していたピアニストが左手を動かせなくなって、
「幸せだったなあ」
ですよ。

それで、その著書を借りて読んでみた次第です。
なるほど、と納得しました。
この方、人間力が、半端ないです。
おっとりしたたたずまい、口調、でいらっしゃいますけれど、精神力、行動力のパワーはものすごい。
考えてみれば、そもそも、1960年代に北欧はフィンランドに移住してしまう、という行動からして、すごいのですが。

いわゆる逆境を、自分の糧に変えてしまう人です。

戦争中の疎開生活で「裸足で田畑の周りを駆けめぐった」4か月を過ごしたことが、その後のピアノどっぷりの生活の肥やしとなったと述べ、

芸大受験に失敗した「浪人時代は学校の勉強からは解き放たれ、ピアノ以外のことをする時間も与えてくれた、貴重な時期」「とにかく、あらゆるものが自分の中に飛び込んできて、僕の人生はぐっと開かれたものになった」と述べるのです。

独立独歩の精神。
演奏旅行には付き人をつけず、楽譜を詰め込んだスーツケースを引っ張って、どこへでも一人で行った、と言います。文字通り、どこへでも。
弾くピアノのブランドがどうとか、状態がどうとか、そういうことは気にならないのだとか。
どんなにおんぼろなピアノでも、聴いてくれる人がいるなら、それを弾くよ。
本番の前に、そのピアノを1時間ぐらい弾けば、ピアノと友達になれる。
そして、できるだけいい音を引き出すことができるから、大丈夫、と。
調律師さんからも、「音程の調整、いわゆる調律さえすればOKな、稀有なピアニスト」という評判を得ているのだそうです。

いやもう、ほとんど、神の領域では??

一生涯変わらない姿勢は、こんな具合。

舞台は一回一回が真剣勝負だ。そのときの自分の向き合い方、もっと言えば、生きているさまにまで大きくかかっていることである。そのときの自分、そのときの会場、そのときの聴衆。毎回異なる条件下で、毎回違うものに仕上がっていく。でもだからといって、僕の音楽に対する探究心や、求める音楽の理想が変わることはないのだ。それは、病気をする前からの、僕の演奏信条である。

僕はステージに出ていく直前、何も考えない。ステージに出たら、そのとき世界が変わるのだ。ポンと音をたたくだけで、即座に新しい世界に飛び込める。

音楽を創り上げていくことを「暴れ牛とと闘う」とも表現する氏。

なぜがんばれるのか。これまでの過去の経験が積み重なって力になっているという部分もあるけれど、それとは別に、「今やらなきゃ」「今こそ、これをやるんだ」という強い意志こそが完遂する力なのだと思う。
それでなければやっていられない!たった独りで暴れ牛と闘うのである。本当に大変な勝負なのだ。頼る人は誰もいない。誰に言っても答えなど出ない。誰にも助けてはもらえない、自分だけの孤独な闘い。目の前の牡牛の角を押さえ込み、あるときはむずかってごねる子どもをなだめすかしているように扱いもする。一瞬も気が抜けない。
音楽も、真剣勝負なのだ。自分の力を全部出してやらなければ、いいコンサートなんてできるわけがない。
「まあ、大体できているから、こんなところで」なんて感じでは。絶対できっこない!


こういう内容が、嫌味でなく、ひけらかしには聞こえず
読み手の心に響いてくるのですから、それだけでもすごい人だと思います。脱帽。

こういう人間力あればこそ、左手のピアニストとして活動再開してから、目を見張る活躍の日々となったわけですね。
世界中の作曲家が、舘野泉のために作品を書いてしまう、といった状況になるのですねえ。

人間、生き方だ!
納得。

著者: 刑部芳則
出版社: 中央公論新社
頁数: 294P
発売日: 2019年11月19日
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本の帯にあるように、次回の朝の連続テレビ小説の主人公は古関裕而夫妻とのこと。
著者は、当該ドラマの風俗考証を担当する日本近代史の准教授、40代。
中学3年で古関の「露営の歌」(♪勝ってくるぞと勇ましく~と始まる軍歌)に衝撃を受け、彼のレコードを買いあさったというだけあって、固い学術書的な筆致ではなく、熱のこもった息づかいが感じられる書きぶりで、読みやすいです。

晩年の「好々爺の代表」みたいな古関裕而氏しか知らなかったので、古賀政男vs古関裕而の対比など、興味深く読みました。戦中を含めた昭和史が生々しく迫ってきます。

1909年生まれの古関裕而(本名は勇治)、
小学校3年のときに買ってもらった3オクターブの玩具ピアノで楽譜の読み方を自力習得し、小学校卒業時には、自分で作った曲も譜面にできるようになっていたといいます。
商業高校(実家は呉服店)では、ハーモニカ合奏曲の編曲を始め、和声学や対位法を本を使って勉強し、高校3年でオーケストラ曲を作曲したというのですから、驚きです。

まさに「音楽に関しては天性の才能の持ち主」。

当時、福島県にあったピアノは師範学校の1台のみ、という指摘にもびっくり。
それ以外の教育現場で使われていたのは、軒並みオルガンだったとのこと。
確かに、昭和40年代の小学校でもオルガンを使っていた記憶が(トシがバレますね)。

音楽を専門として学校で学んだわけではないものの、銀行勤務の傍ら、アマチュア作曲家として母校の商業学校音楽部に曲を提供したり、イギリスの楽譜出版社発行の雑誌で目にした管弦楽作品国際コンクールに応募して入選したり、という形で音楽活動に邁進。

20歳にして、文通で知り合った18歳の女性(オペラ歌手目指して勉強中)と意気投合して結婚、というあたりに時代を感じます。
手紙って、大きな通信手段だったのですねえ。
日中戦争下には「たより」もの(出征した兵士が銃後の妻子たちに送る「たより」を歌にしたもの)が次々と流行した、というくだりにも驚きました。

面白かったのは、
古関は音楽大学を出ずしてコロムビアレコード専属の作曲家となったのに対して、
当時のレコード録音には、音楽大学の学生が生活費を得るため、名前を隠して歌うことが多々あったということ(身分がバレると退学になったりしたのだとか)。
そして、古関の作曲の特徴は、クラシック音楽的でありながら、ガチガチのアカデミック調ではなかったために、一般大衆にも受け入れられたのだ、という指摘です。

ハモンドオルガン、
ラジオドラマのBGMなどに便利だったため、戦後よく使われた、との記述にも納得。


他にも発見は多々。おすすめです。

  • 著者恩田陸
  • 出版社: 幻冬舎
  • 2019年10月刊行
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    映画で話題になった『蜜蜂と遠雷』のスピンオフ短編集。
    でも、描かれる世界はそんな枠には収まりません。

    80ページほどに6作の短編。
    その構成が凝っています。
    短編の題名は、順に次のとおり。
    (実際には番号はついていません)

    1「祝祭と掃苔(そうたい)」
    2「獅子と芍薬」
    3「袈裟と鞦韆(ブランコ )」
    4「竪琴と葦笛」
    5「鈴蘭と階段」
    6「伝説と予感」

    そして、全体の題名が1と6をつなげた
    『祝祭と予感』。
    1は『蜜蜂と遠雷』幕切れ後すぐ、コンクール入賞者コンサートツアー中の亜夜、マサル、塵の姿を、
    6は、塵の子ども時代、ピアノの巨匠ホフマンに見出された日のことを描きます。

    1.の「掃苔」とは、墓参りのこと。
    亜夜とマサルの恩師の墓参りという場でのエピソードですが、そこに塵の恩師ホフマンの死も重ねられ、
    最後に在りし日のホフマンの姿を生き生きと描くことで閉じられるのです。

    「死」は、コンクール課題曲「春の修羅」が生まれた背景を語る3作目「袈裟と鞦韆(ブランコ )」のテーマでもあり、ここでは、師から弟子への想いが語られます。
    全体として、
    時空を超えて脈々とつながっていく、音楽への愛、才能を得た音楽家たちの時空を超えた交流、といった、遥かなるものを感じました。

    そんな中で、
    2.では、コンクール審査員であり、元夫婦でもあ有名ピアニスト の二人の出会いと今、
    4.は才能あふれるマサルの少年時代と、その恩師(3.の男性審査員)との交流、
    5.は、亜夜を支えたヴィオラ奏者・奏の楽器選びに、亜夜と塵(受賞後、デュオ活動でプラハ来訪中!)が関与する姿が、描かれます。

    音楽って、方程式では語れないよね、
    音楽の天才だって、生身の人間だよね、
    音楽を通した出会いって、神がかった部分があるよね、
    そんな共感を感じつつ読みました。

    映画の祝祭感の余韻とともに、さまざまな展開を予感させる短編たちは、
    ストーリーのワクワク感、インスピレーション掻き立て感、たっぷり。
    映画公開とのコラボにも脱帽です。

著者: 髙木裕
出版社: 音楽之友社
頁数: 191P
発売日: 2019年05月31日

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1983年の初来日時のコンサートを聞いた吉田秀和に「ひびの入った骨董品」と称されたことが話題になったホロヴィッツですが、そのピアノの音色の美しさは、他に比するものがなかったと言われます。

著名な調律師である著者は、その音色は彼のテクニックだけに拠るものではなく、ピアノという楽器そのものの特性、調整の仕方にも拠るのだ、と主張。
手元にホロヴィッツの愛した2台のピアノ(1887年製と1912年製のスタインウェイ)を持つ彼は、その2台の楽器の音声をスペクトル分析したデータを示すなど、科学的な裏付けをあげて論じます。
確かに、ホロヴィッツは自分の気に入ったピアノを世界中に運んで歩くことの許された、稀有な存在でした。

でも、私にとっては、こういったデータや数値よりも、

・19世紀のフォルテピアノの流れをくみ、ロマン派の音を醸し出すピアノ
・大人数オーケストラと渡り合える大音量を出すように開発されたモダンピアノ

という対比がおもしろかったです。
翻って日本を見れば、いわゆるバブルのころ
「1980年代末期、世界中で最もスタインウェイが売れているマーケットは断トツで日本」
という状況で、円高により安く買えるはずの楽器も、ありがたがって高い値段で買っていたのだとか。
ニューヨークのスタインウェイ本社に乗り込んで教えを請うた著者いわく

ヨーロッパで生まれたフォルテピアノは、ロマン派時代にニューヨークのスタインウェイ社によって現在の形に進化、完成しました。その完成度は他のメーカーの追従を許さず、20世紀初頭にクラシック音楽を大ホールで演奏する現在のスタイルに変え、巨匠時代を築き上げた功績については、ニューヨーク製スタインウェイ抜きでは語れません。その栄光によりハンブルク製スタインウェイが戦後、世界中で使われるようになったことがわかり、ようやく長年の疑問が解けてスッキリしたのです。アメリカにおける20世紀初頭の重要な情報が抜け落ちているのは、その時代に日本はアメリカと戦争しており、西洋音楽はドイツやイタリア以外禁止の時代が長く、情報が全く入ってこなかったことも要因でしょう。

ピアノの変化にも、世の情勢の移り変わりが影響するのですね。
その他、スタインウェイ本社の人間関係(技術担当と営業担当の対立とか、コストカットの流れとか)などもありましたが、
ホロヴィッツが、ロマン派のピアノを意のままに操った世代の最後のピアニストであり、彼の死とともに、ピアノの一つの時代が終わりを告げたという指摘に、なるほどと思いました。

でも、なんだかこの本、
著者だけがアメリカのスタインウェイ社にも認められたひとかどの人物で、
旧弊にまみれた愚かな日本人たちを啓蒙する使命を帯びている…というトーンが感じられて、ちょっと抵抗も感じた次第。
読みすすめる上でのワクワク感は、なかったかなあ。

著者: ペーテル・バルトーク
出版社: スタイルノート
頁数:464P
発売日: 2013年08月08日

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ベーラ・バルトークという人物にについてほぼ無知な私だったのですが、
ピアニストのアンドラーシュ・シフ氏が、若い頃からバルトークの「ミクロコスモス」で勉強してきた、素晴らしい作曲家だ、といった発言を繰り返しておられるのを見て、興味を持ち、読んでみました。

私、バルトークの作品は演奏したこと皆無です(テクニック不足ですし。汗)。
でも、ピアノ・コンクールなどで聴く作品などから

・民族的な連打音を多用する激しさを持つ
・難しいテクニックを要求する厳しさがある
・あまり周囲とは交わらない、孤高の人

といったイメージを勝手に抱いていました。
でも、実は、山の自然と昆虫などをこよなく愛するナイーブな人で、
家族愛に満ちた紳士だったのですね。

写真に残る仏頂面は、彼の普段の姿ではない、とのこと。
当時の国際状況から、ピアノ演奏で国際的に活動する際に写真提示を求められる回数が多く、無理に証明写真を撮らされたときの姿だから。
彼は、愛想笑いや、おべんちゃら、といったことが一切できなかったのだそうです。

その一方で、意志を持って現世に対応できる有能さをしっかり持っていました。
ユダヤ人ではないのに、ヨーロッパでヒットラーが力を得ていく姿を見て、
断固として脱ヨーロッパを決意。
当時、寄宿舎に入っていた息子(この本の著者)が遅れて渡米するしかないことを気遣い、愛情深い手紙で彼を励まし、知り合いにも後援を依頼します。

全460頁の本書、p.321~p.445は「父ベーラから息子ペーテルへの手紙」なのです。
まさに、子を思う父の愛に溢れています。

でも、けっして猫可愛がりするわけではありません。
寝坊して学校をさぼってしまったペーテルに対しては、こんな対応をとるのです。

それまで父は私が間違ったことをすると、なぜこれこれのことをしてはいけないかと説明してくれたが、この時は罪にふさわしい罰を与え、私は夜までパンと水だけで部屋に閉じ込められた。翌朝、私はかなり早起きした。
 学校では何かの理由で欠席すると、うちの子は腹痛だったおかのどが痛かったなど、親からの理由書を持っていく必要があった。私も提出しなければならず、思った通り、朝起きると父の直筆の手紙ができあがっていた。前日は具合が悪かったとでも書いてあるかと思ったが、封が開いていたので読んでみると、次のように書かれていた。
関係各位殿
 息子ペーテル・バルトークは、昨日寝坊した恥ずかしさから、学校へ行くことができませんでした。それに見合った罰は受けました。以上証明します。(後略)

仕事に対する熱意、厳しさも、繰り返し語られます。

ハンガリーやトルコの民謡を採取するためにどれほどの時間を割き、素朴な人々との交流にどれほど心慰められていたか。
録音した瘻管をを保管し、守るためにどれほど心を砕いたか、そして、戦火に失望したか。
渡米後、体調を崩す中で、どれほど苦労をしたか。

最後の最後まで仕事を続けようとした父が、病院に収容され、機械につながれ、その望みがかなわなかったことを、ペーテルはずっと悔やんでいます。
母への誕生日プレゼントとなるはずだったピアノ協奏曲第3番、最後の2ページのオーケストレーションを完成させられなかったことを。
父はこの仕事は1日あれば終わると見込んでいたのに、あと17小節だけだったのに、と。

作曲家バルトーク自身の言葉が胸を衝きます。

「私はこの世に無で生まれた。そして無で去りたい。」
「いちばん悔しいのは、トランクが詰まったまま、去らねばならないことだ。」


彼の頭の中には音楽の構想が詰まっていたのに、それを記譜し、頭の中を無にすることができる前に、この世を去ってしまったのでした。

ベーラ・バルト―ク。
改めて彼の音楽を聴きなおしてみようと思いました。

『メナヘム・プレスラーのピアノ・レッスン~音楽界の至宝が語る、芸術的な演奏へのヒント~』
著:ウィリアム・ブラウン
訳:瀧田 淳
音楽之友社 278頁 2017年10月
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前半のインタビューには、含蓄ある言葉がいっぱい!

プレスラーが目指すゴールは、ピアニストが音を出す前に心の音を聴けるようになること、また楽譜に対して機械的に反応するのではなく楽譜を読んで準備することである。ピアニストが響きに対して創造的となり芸術家になることができるのは、内なる耳を持つことによって、である。(p.83)

プレスラーにとって重要なのは、ピアニストが透明感のある音に加え、鍵盤を叩く音ではなく、肘や腕によってやわらげられた非打楽器的な弾き方で弾くことである。(p.84)

プレスラーは緩徐楽章の練習に多くの時間を費やす。ここでは、十分な意味的表現や響きの深さ、またパッセージ同士の入りの関係や手と声部のバランスの獲得がなされる。
パッセージの入り方や和声の運び方、色彩感に関して、自問自答するかのように、注意を払う。(p.102)

うまくなるということは、より聴けるようになる、より感じられるようになる、そして自分自身に対してあまり心配しなくなる、ということです。私たちは、音楽の使者に近づくのです。(p.176)

私、暗譜ができなくて苦戦中なのですが(若い時は、難なくできたのに。涙)、
プレスラー氏、この点についてもいろいろ書いてくださっています。
90歳過ぎての現役ピアニスト(最近はさすがにステージには立っておられぬ様子ですが)によるアドバイス、よく読んで頑張ってみようかなあ。。。

◆多様な通し稽古をする
1.弱音で曲を通す
2.少し音量をあげる
3.豊かな響きを持って通す

◆疑問に思うところを考えながら弾き、その部分を楽譜に記して勉強しなおし、何日もかけて暗譜する
◆フレーズに通し番号をつけ、いろいろな箇所から始める

◆楽曲を心の中で鮮明にする
イメージ
音色
フレージング
曲のまとまりごとに暗記
…………

半のレッスン記録は、
ピアノ協奏曲をはじめ、私には手の届かない曲目のオンパレード。
ピアニストって大変な職業だなあと、改めて思いました。

アンドラーシュ・シフ 著
春秋社
2019年9月7日刊行
424頁
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刊行されたばかりの本。
思わずポチッと購入し、さっさと読んでしまいました。
先日見たアシュナシエフを取材したTV番組と、題名の指向性が似ていますけれども、
こちらは、そこまで哲学・哲学しているわけではありません。

第1部 音楽と人生―マーティン・マイアーとの対話(インタビュー記録)
第2部 ピアニストは考える―エッセイ集


「日本の読者の皆様へ」には、次のようにあります。

私は日本に対してとても親近感を持っております。この国を何度も訪れるなかで、日本の歴史と伝統を学び、美しさも知りました。本書のなかで、私は「良い趣味」と「単純さ」について書いていますが、これらは芸術の本質であり、さらにみなさんの国を象徴するものです。どんな音楽にも始まりと終わりに静寂があることに関して、この法則を会得するにも、自分の心のうちに平穏を見つけ出すにも、日本は私に多大なインスピレーションを与えてくれました。

良い趣味:good taste
単純さ:simplisity

この二つ。
難しいです。
この部分だけでも、深い思考を感じます。
うー。私は自分の心のうちに平穏など感じない日々を送ってますよ。
日本人失格かなあ。

本全体を通して印象に残ったことは、

バッハへの造詣の深さ
自分の成長、歩みを端的に説明できる頭脳明晰さ
そして、
ハンガリーという国に対する、ユダヤ人としての苦々しい思い
それから、
ユーモア。

読み終えて、感動とか、共感とかいうものよりも、
読者として、自分が小さすぎた……
といった感覚が残りました。
音楽の話題も、政治の話題も、茫然としつつ、ただ字面を追うだけになってしまったといいますか。

もっと修行してから、改めて読みなおそうと思います。


<追記>
あ、過去の記事のこちらのほうが、「なるほど」感が強かったかな。



そういえば、↑の記事で、リストの協奏曲が嫌いというくだりがあったのですが、今回、その理由が述べられていました。

私は今でもリストの変ホ長調のピアノ協奏曲が嫌いです。なぜなら、当時(ハンガリー国立フィルハーモニーに演奏曲目を指定されていた若いころ。PIO注)それを弾くことを強制されていたからです。有無を言わさず弾かされたのです。ハンガリーのピアニストなら当然リストだ、というわけです。(『静寂から音楽が生まれる』p.165)

平野啓一郎 著 音楽之友社 166P  2013年12月刊
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5年前に読んだ本の再読です。
ピアノを趣味としつつも、あまりショパンを弾かずにきた私なのですが、
このところ、ちょっと弾くようになったこともあり。

平野啓一郎氏が『音楽の友』という雑誌に『ショパンをもっと知りたい』という名前で2009年~2010年に連載していた原稿を元にまとめたもの、とのこと。
小説『葬送』を執筆していたときの取材メモに基づく内容となっています。
さすが知識人、平野啓一郎!
一つ一つのエピソードは短いながら洗練されていて、読みやすいです。

ショパンの父ミコワイのことが一番印象に残ったかも。
フランスから移住した一介の語学教師から、大学教員にとりたてられ、
先賢の明で寄宿舎を建てて大学に貢献するとともに、フレデリクに理想の環境を与えることにもなった、とのこと。

 音楽家ショパンが形成されてゆく過程は、なにか劇的で、壮絶な逸話の数々に彩られているというよりも、知的で、物事をよく分かっている大人たちが、皆で見守りながら、この素晴らしい才能をどうしたらいいかと、大切に育てていったような観がある。それは、そうした人々を惹きつけた、ミコワイの人間的魅力があればこそだっただろう。(p.53)

 ミコワイは、一貫して理性的で、愛情に満ちた父親であり、ショパンにとっては、父性の手本のような存在だった。ショパンがサンドの連れ子たちに、幾分父親らしい振る舞いをするようになり、それがサンドの反発を招いて、二人の関係を決定的に悪化させてゆくのはこの(ミコワイの死の)丁度後である。そのタイミングが興味深い。
 パリで栄光の最中にある息子の姿を目の当たりに出来なかったことはさぞ無念だったろうが、ショパン自身がこのたった五年後に亡くなってしまうことを知らないまま他界したのは、ミコワイにとっても幸いであったに違いない。(p.58)


あ、それから、
ずっと後年、フレデリクの命を縮めたスコットランド行きの様子も、まざまざと感じ取られました。
旅のセッティングに奔走したスターリング嬢の厚意が仇になるなんて、ほんと、人生ってわかりません。

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