中川右介著 朝日新聞出版 2016年4月刊

第二次世界大戦を、その渦中を生きた音楽家たちがどう生き抜いたか、という点から描いた本です。
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私、ちょうど友人を訪ねるドイツへの旅から戻ったところで、ドレスデンの州立歌劇場や、ベルリンのコンツェルトハウスへも足を運んだので、
「ほおおお、あそこで、そんなことがあったのかっ!」
と、膝を打つような内容も多々あり、たいへん有意義でした。

例えば、
ベームが音楽監督をしていたハンブルクとドレスデンとでは、歌劇場としてはドレスデンの方が格上だった。ベームは何としてもドレスデンのポストが欲しかった。そのためにはナチスに気に入られなければならないことも分かっていた。(p.72)
とか。
確かに、外装も内装もすごいスケールでしたけれども、ステータスも高かったのですね、
ドレスデンの"Senperoper Dresden" (Sächsische Staatsoper Dresden ザクセン州立歌劇場) って。

また、
ナチス・ドイツとは、藝術家としては成功できなかった三流藝術家たちが、一流の藝術家を支配することで、自らの藝術的野心を満足させるための巨大な玩具だった一面も持つ。(p.52)
という視点にも驚きました。
ヒトラーは画家志望、ゲッペルスは作家志望だったとは。

そして、独裁者に気に入られるか否かで、人生が大きく変わる……時によっては死に至る……という世の恐ろしさを改めて感じました。

その例はショスタコーヴィチ。
1936年、ボリショイ劇場には彼のオペラ「ムチェンスク邸のマクベス夫人」観劇に訪れたスターリンの姿が。「いつお呼びがかかってもいいように劇場で控えて」いたショスタコーヴィチだったのですが、スターリンは作曲者を呼んで歓談するどころか、何も言わずに途中で帰ってしまったのでした。

これを皮切りにソ連のありとあらゆる紙媒体がショスタコーヴィチを批判し、彼の曲は他の交響曲などを含め、演奏されなくなってゆく。
天才作曲家は理由が分からない失脚をした。
スターリンが席を立った理由は、誰にもわからなかった。「プラウダ」が批判した「形式主義」が何を指し、どう悪いのかも誰にも分らない。(中略)スターリンの追随者たちは、とにかくショスタコーヴィチを批判しなければと考え、「形式主義」なる言葉をひねりだしたのだった。(p.156)


また、時代の流れをしっかり見据えて行動することの大切さも思い知りました。
ある時点までは善行だったことが、世の流れとともに犯罪になってしまうこともあるのです。
フルトヴェングラー、そしてカラヤンも、しかり。

ヒトラー誕生日の記念演奏会で演奏を任されるのは、音楽家にとって、ナチス政権時代は名誉なことであり、戦後はその経歴に汚点として刻まれることになる。(p.53)

フルトヴェングラーは「政治音痴」だったとかで、音楽と政治は切り離して考えるべきだ、という主義で、ヒトラー政権下に平気でユダヤ人演奏家をドイツに招こうとして周囲に呆れられたりしたのだそうです。
前述のように、藝術的野心家の集団でもあったナチス・ドイツは、内閣の一つに国民啓蒙・宣伝省を設け、文化・藝術行政を担わせました。それゆえに、

戦争国家であり、人種差別国家であると同時に藝術至上こうっかでもあったことが、多くの藝術家に判断を誤らせたのだ。(p.52)

ということになるのです。
カラヤンが若くしてドイツで活躍を始められたのは、国外に逃げ出した大物指揮者たちの空席があったからだった一方、彼自身が狙っていたドレスデンのポストを逃したことが戦後、功を奏し、

戦後のカラヤンには「ヒトラーに嫌われていたので、ドレスデンの音楽監督に就任できなかった」という事実が必要だった。(p.325)

ということに。
フルトヴェングラーも、戦況悪化につれ、ヒトラー誕生日を祝う式典の指揮者から逃れるべく、考え得る限りの策を弄することに。そして、戦後は裁判を受けるものの、ヒトラー政権に近い立場にいつつ、逆にその立場を利用して多くのユダヤ人を逃がしてもいたことが評価され、無罪となります。

一方、ショスタコーヴィチは、1942年、第七交響曲「レニングラード」で復活を果たします。
アメリカをはじめとする西側でも「ファシズムとの闘い」を描いた曲として評判になり、
イタリアの反ファシズム老指揮者(トスカニーニ)によるアメリカ初演(スタジオからの放送演奏会で全米に放送)が全米国民の胸に響き、

参戦したばかりのアメリカが、ヨーロッパ戦線で闘う連合国と一体となったのはこの時からと言われる。
トスカニーニの狙いは、まさにそこにあった。彼は音楽の力を知っていた。(p.316)


のだそうです。音楽の力、ひしひし。
その楽譜は、封鎖が続き、飢餓に苦しむレニングラードにも、ドイツ兵の包囲網をくぐり抜けての極秘搬入されて、ついに当地でも初演がかないます。

ホールは超満員となった。入れなかった人のために拡声器を使い全市に流され、レニングラードを包囲しているドイツ軍兵士の耳にも届いた。
それは市を包囲しているドイツ軍に対しての音楽でもあった。ドイツ軍のレニングラード戦線司令官は、演奏の邪魔にならないように、始まる前に大砲での集中爆撃をしてしまうように命じ、演奏中はこの音楽を聴いた。
この一時間ちょっとの間、レニングラード市と包囲するドイツ軍と、中に立て籠もるレニングラード市民とはひとつになれたのかもしれない。夢のような時間だった。(p.317)

すごい切迫感です。音楽への飢餓感と、音楽の持つ力の放出と。

これら以外にも
メシアンが「夜の終りの四重奏曲」を作曲したのは収容所の中で、そこで組むことのできた四重奏団の楽器に合わせ、クラリネットを入れた編成になったのだ、とか
ドイツが併合した国々でも頻繁に音楽会を催し、満員の盛況だったというが、その観客のほとんどがドイツの軍人だったとか、
なるほど~と思うポイントがたくさんありました。

そして、ナチス・ドイツの黒い歴史を持ちながら、
戦後、しっかり歴史と向き合い、東西ドイツの統一もプラスに変え、ここまで着実に世界での地位を高めてきたドイツの力に、改めて敬服する思いを抱きました。