川上未映子、村上春樹 『みみずくは黄昏に飛びたつ』新潮社 2017
20170830haruki

「訊く」川上未映子の鋭さと、「語る」村上春樹のポリシーの確かさに唸らされました。
内容をまとめれば、「はじめに」で川上さんが書いているように
大切なのはうんと時間をかけること、そして「今がその時」を見極めること。村上さんはくりかえしそれを伝えてくれたように思う。(中略)
まずはみなさんも一緒に入ってくださると、すごく嬉しいです。ようこそ、村上さんの井戸へ。
ということになります。

第一章 優れたパーカッショニストは、一番大事な音を叩かない
第二章 地下二階で起きていること
第三章 眠れない夜は、太った郵便配達人と同じくらい珍しい
第四章 たとえ紙がなくなっても、人は語り継ぐ


という構成のうち、第三章、第四章は新作『騎士団長殺し』の執筆に関するインタビューで、まだこの作品を読んでいない私は、ざっと読み飛ばした感じとなりました。
第一章、第二章の濃さ・深さだけでおなかいっぱい……となってしまった感もあります。

村上春樹文学は他の言語に翻訳されても読みやすい、理解されやすい、という点について、よく、春樹の英米文学への傾倒を理由とする説を聞きますが、春樹自身の考えではそうではないようです。

僕のボイスがうまくほかの人のボイスと響き合えば、あるいは倍音と倍音が一致すれば、人は必ず興味を持って読んでくれるんです。最初の『風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』は、その響き合い、倍音の呼応だけで読んでもらったような気がする。その一点の勝負だった。僕のボイスがうまくほかの人のボイスと響き合えば、あるいは倍音と倍音が一致すれば、人は必ず興味を持って読んでくれるんです。最初の『風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』は、その響き合い、倍音の呼応だけで読んでもらったような気がする。その一点の勝負だった。(p.38)

すごく不思議に思うのは、僕の小説が翻訳されると、翻訳されてもなお、ボイスが消えないんですね。(中略)
自我レベル、地上意識レベルでのボイスの呼応というのはだいたいにおいて浅いものです。でも一旦地下に潜って、また出てきたものっていうのは、一見同じように見えても、倍音の深さが違うんです。(p.39)

「ボイス」(これは「態」じゃなくて「声」ですよね)、「倍音」という音楽用語で、実にうまく言い当てているように思います。そういえば、第一章のタイトルも音楽絡み。
上記は「小説を書いていて、必要な時に必要な記憶の抽斗がぽっと勝手に開いてくれる」という「キャビネットの存在」を語る箇所と、物語を「くぐらせる」ということについての箇所ですが、この後、「文章とリズム、書きなおすということ」についての語りでは、次のような箇所も。

音楽を演奏するみたいな感覚で文章を書いているところは、たしかにあると思う。耳で確かめながら文章を書いているというか。それから「壁抜け」じゃないけど、本当に優れた演奏はあるところでふっと向こう側に「抜ける」んです。ジャズの長いアドリブでも、クラシック音楽でもある時点で、一種の天国的な領域に脚を踏み入れる、はっという瞬間があるんですよね。(中略)
そういうふっと「あっち側に行っちゃう」感覚というのがないと、本当に感動的な音楽にはならない。小説だって同じことです。でもそれはあくまで「感覚」「体感」であって、論理的に計算できるものじゃありません。音楽の場合も、小説の場合も。(p.48-49)

なんか、深いです。
やたら穴やら井戸やらが出て来るのは、そういうことなのか、と納得もしました。
登場人物の名前も、比喩も、話の筋も、「向こうからやってくる」もので、論理的に頭で考えるものではないのだそうです。

さらに、グレン・グールドまで出て来ます。
頭で考えて書くんじゃない、ということを「プログラミングする側とプレーする側が、自分の中で完全にスプリット(分断)されている」と喩えたうえで、さらに、バッハの「ゴルトベルク変奏曲」の聴き比べを例に挙げて、

グレン グールドの演奏って、他の奏者のものとは圧倒的に違うんですよね。実に孤絶しているっていうか。どこが違うんだろうってずーっと考えてきたんだけど、やっとわかったのは、普通のピアニストって右手と左手のコンビネーションを考えながら弾いているじゃないですか。ピアノ弾く人はみんなそうしてますよけ。当然のことです。でも、グレングールドはそうじゃない。右手と左手が全然違うことをしている。それぞれの手が自分のやりたいことをやっている。でもその二つが一緒になると、結果的に見事な音楽世界がきちっと確立されている。(p.103-4)

「右手と左手のスプリット感」が独特で、「グールドがプログラムしているんじゃなくて、自然にプログラミングされてる感じ」、これが「乖離の感覚、乖離されながら統合されているという感覚」を生み出し、何かしら本能的に人の心を強く引きつけるというのです。
で、
若い作家がノープランで作品を書いて、結局わけがわからなくなってしまっているようなのは
グレングールドばりに右手と左手をバラバラにやってみて、出来上がったものが全然音楽になってないのと同じ。(p.117)
と言い、それは「地下二階」(地上は団らんの場とプライベートの場、地下一階が自分自身の意識に密接した、トラウマも含む場、そしてさらに深い地下二階は…)という深さにまでコミットできていないことの表れだ、とのこと。
この「地上」「地下」の話では、
ヒラリー・クリントンは家の一階部分に通用することだけを言って負けて、トランプは人々の地下室に訴えることだけを言いまくって、それで勝利を収めたわけ。
と言い切っていて、これまた納得してしまいました。

長くなるので、このへんで止めますが、お二人のしなやかな丁々発止、お見事でした。