2019年1月6日(日) 午後10時00分(110分) BS1 放映

2018年11月、ピアノの歴史300年史上初・「左手のピアニスト」のためのコンクールとして開催された国際コンクールを取材した番組。
12月にNHK総合の早朝番組でも取り上げていました(→目撃!にっぽん!「左手がつむぐ希望のメロディー」)が、そのときとは異なる出場者に焦点が当てられていました。

コンクール主催者・智内威雄氏は、2018年に放送されたラジオ講座「左手のためのピアノの世界」の講師でもあります。
智内氏、右手を失ったピアニストの演奏について、
「何かを失うと、そのことが人々の心を打つ」
「音楽をしたいという強い希望、音楽への思いが凝縮されている」

と述べ、音楽の作り方については
「楽器の個体がどのくらい響いているかを耳でチェックする」
「音の響きはペダルの踏み加減一つ。ピアノがどう響きたいのかをよく聴いて、ピアノとの共同作業で音を作る」

と説明されていました。

以下、カメラで追ったドキュメントの内容についてのメモ書きです。
上記の智内氏の説明の具現化というべき演奏が聴けました。
そして、演奏者の凝縮された思いを、ひしひしと感じました。
2019-01-06 (1)

プロ部門出場者・予選(一日目)

 音大に通っていた12年前、局所性ジストニアを発症した30歳女性
「左手のための曲だけを連なって聴けることはめったにない機会」

 タイから参加した21歳の青年(20歳からオーストリア留学中)
2年前から左手の親指に不調を抱える
12歳でオーケストラと共演。若き逸材として注目されてきた人物
将来が見通せない。どういう道を歩むべきか

タイの音大に勤める日本人恩師にコンクールへの出場を薦められて決断
母との会話
「同じような障害を抱えている人と知り合える。解決策がわかるかもしれない」

 会場で演奏に耳を澄ませる28歳の青年
ジストニアと診断され、コンクールに再起をかけている
音大学生のときから都内ワンルームに住み、現在は福祉関係の仕事に就いている
左手のピアニストとして活動を始めた際、左手もジストニアとの診断を受け、いったん音楽を離れるが、
「ピアノをやっていない自分は何者かわからない。死んでいるようなもの」
と気づき、一から練習を再開
少ない自由時間をコンクールの準備に充ててきた

 音大付属の高校に通う女子学生
宮城から状況してプロのピアニストを目指しているうちに、ジストニア発症
「一生懸命にやる」という態度しか見せないが、心のうちは違う
母との会話
「神経研ぎ澄まさないとやっていけない。難しい」
自分の実力が今どう評価されるのか

本選出場者五名の予定のところ六名選出→    の全員が本選へ


アマチュア部門(二日目)

小学生から60代まで動機も背景も異なる28人が参加 
大賞一人を決める

 脳内出血で右半身がマヒした、元フリー電子ピアニスト
「ピアノさえ弾ければ希望はある」
左足で右ペダルが踏める器具を友人に作ってもらい、自ら作曲した曲で出場

 福祉事務所で週に4日働く20歳の青年
4歳の時の脳腫瘍で右半身に麻痺が残る
右手のリハビリのために両手ピアノの練習を始めたが、左手だけの曲なら自由に弾けるとのめり込む
「アヴェ・マリア」
に出会って、心を載せて弾けるようになる
彼を支えようと今は一致団結している家族も、波風多い今までだった

大賞一人の予定のところ、三人に。
  二人の名前は呼ばれなかった。
「力を出しきった」と言っていた青年が涙ぐみ「もう少し難しいの弾かんとあかんのかな」
が、
1日後、大賞に加えて入賞者を3名発表。その中にの名前があった。


プロフェッショナル部門・本選(三日目)

 30歳のプロピアニスト
密かにジストニアの症状に悩んできた葛藤を語る

 ジストニアの症状の高校生
母が「ピアノを辞めてもいいよ」と言うと、本人は「手がもげても、足がなくても弾きたい」
演奏後
「予選のときのような、いい感じでは弾けなかった」

 オーストリアで、両手演奏者に交じってコンクール参加もしてきた女性ピアニスト
練習のし過ぎで左手を痛めて本選を迎えていた
笑顔の陰に葛藤
「勝とうと思った時点で音楽じゃなくなる」と指導者に指摘されたと語る
ステージ発表後、涙にくれる
「手が痛い」
「音楽だけは届けようと頑張ったんですけど、、、」

 タイからの参加者
ラヴェル作曲「左手のためのピアノ協奏曲」
演奏後、ホーキング博士の言葉を引用
「生きてさえいれば、そこにはまだ希望はある。体に障害があろうと、思わぬことが起ころうと、闘って生きねばなりません」

結果発表
皆それぞれ違う個性があって審査は難しく、点数も競ったとの審査員の説明。
3位: 
2位:
1位: