落合陽一 著 PLANETS/第二次惑星開発委員会 2018年6月刊行

51i6-BfDOAL
図書館に予約して、ずいぶん待ちました。今も予約者が数十人。人気なのですね。
落合陽一氏の本、これで3冊目ですが(→『日本再興戦略』 『10年後の仕事図鑑』
今回の本がもっとも広い視野に立った、壮大なスケールの内容でした。
実は、読み終えるのに年をまたいでます。

「デジタルネイチャー」の向こうに
高齢者、身体障碍者と健常者という分類がなく、個々人が多様性を維持しながらも快適に過ごせる社会
を目指すとありますが、
そういえば、本書にも載っていた、
耳で聴かない音楽会 2018年4月22日 東京国際フォーラムにて開催
は、私もニュースで見ました。

音楽でいえば、コンピュータと人間のコラボが既に実現しているとのこと。
デジタル技術を応用した現代曲の作曲は、もはや当たり前ですが、
『Human Coded Orchestra』という、指向性スピーカーによって「合唱の制御」を実現するシステムが既に完成。聞こえてきた音を真似て歌うだけでハーモニーが成立する「コンピュータによって演奏された人間の合唱」ができるんだそうです。


さて、本書の内容です。
まず、各ページの左端に列挙される「注」の深さに驚嘆。

本書では人類・人間・ヒト・人という言葉が頻出するが、「人類」は進化論的存在、「人間」は社会的存在、「ヒト」は生物学的存在、「人」は文化的存在、という意味で使い分けている。(p.15 注8)


こんな感じ。専門用語もたくさん。
そして、古代文明から中世欧州、現代デジタル技術に至るまで、縦横無尽に語られる教養に、それも、自分なりの視点で消化したうえで、自論の根拠として提示してくる、しなやかさに圧倒されました。

シラーの言葉を引用して、
植物は余剰エネルギーを大地に還元するが、動物は余剰エネルギーを運動に転換することで、自然界の物質的束縛を断ち切り、より自由になるべく姿を変えていくと詠った。(p.16)
と述べ、
その「余剰エネルギー」という言葉を用いて、この本では
「計算機的余剰」から出現した〈新しい自然〉について論じるのだ、と高らかに宣言するのです。


内容が多岐にわたっているので、以下、かなり乱暴に、恣意的に、抽出・要約します。
私がびっくりしたのは、以下のような点です。
  • 〈言語〉が人間と社会を根底で規定するという思想は、終焉を迎えるだろう。そもそもこれは、20世紀初頭にヴィトゲンシュタインによって見出された新しい思想。
  • 近年の計算技術の発展は、言語を介在せずに現象を直接処理するシステムを実現しつつある。
  • 計算機の「0と1」で情報を処理する方法は、動物の神経細胞の情報処理と同一(類似?)で、理にかなっている。言語に頼る必要はない。
  • イルカとクジラは地上から海に戻り、海中で超音波によるコミュニケーション――インターネットに近い情報伝達ツール――を用いている。2000万年かけて、非言語的で非物質的なコミュニケーションを獲得したと考えられる。
  • それなら、インターネット以降の我々が言語から現象のコミュニケーションに移行するのも、進化論的な必然かもしれない。
ひいい。
言語が消えるのですか!……と、語学教師の端くれである私は驚嘆したのでした。
で、
  • 「非言語的直接変換システム」のパラダイムでは、二項対立の原理に立つ西洋思想は役に立たない。東洋文明の古典の知見が、計算処理の繰り返しの末の自然的未来を予見していたかのよう。
  • 厳しい修行や極限的思考の末に到達する精神的な「悟り」ではなく、神経系を模した人工ニューラルネットによって、東洋文明の古典の知見が機械の内部に統計的に生成されつつある。

ということに。
で、人間とコンピュータは、どちらがどちらを支配する、という発想ではなくて、まさに同一のレベルの存在として共存し、両者にとっての「最適化」の道を探りつつ進化していくであろう、と。

  • 今、この世界にはタンパク質をベースにしたプロテイン型コンピュータ、すなわち「生物」と、半導体素子のもととなるケイ素をベースにしたシリコン型コンピュータ、すなわち「コンピュータ」が共存している。
  • コンピュータがもたらす全体最適化による問題解決、それは全体主義的ではあるが、誰も不幸にすることはない。全人類の幸福を追求しうる。
  • 前世紀の全体主義が「人間知能の民主主義に由来する全体主義」だとすれば、これは「人間知能と機械知能の全体最適化による全体主義」および「〈デジタルの自然〉を維持するための環境対策」である。

さらに、<人権>という発想は、西洋の二項対立理念から生まれた<欺瞞>であるとか、いろいろ…。
  • 将来は、西洋的なピラミッド構造ではない、東洋的再帰構造からなる「回転系自然なエコシステム」が形成されるはずだ。
  • 機械と人間が構成する「新しい<自然>」の発明は、現在の世界の枠組みを超越しうる。「新しい<自然>」は共有されるべき新しいビジョンなのだ。
このあたりが、落合氏の主張のツボかと。
あ、コンピュータが暴走して人間を殺しにかかる、というSF映画によくあるパターンは発生しないんだそうです。
なぜなら、人間の寿命80年は、インターネットの寿命(おそらく数千年)にくらべて短すぎるから。「人類よりはるかに長い寿命を持つインターネットは、私たちの人生には直接関わりを持たず、寿命単位で区切った世代的なスパンでしか人間を認識しないだろう」ということで。
スケール感、半端ないです。

最後に、p.255-256を丸ごと引用。

  • 我々はディスプレイを通じて、直接目にしていないものを<現実>と信じ、同時にコンピュータグラフィックスや特撮を<虚構>とみなす。映像メディアには、このような排反的なリアリティが常に付いて回る。
  • それに対し、デジタルネイチャーでは<実質>と<物質>の区別が超越され、我々の身体とつながるすべての現象が、唯一の<現実>として受容される。計算機によるヒューマンインターフェースの外部で、<虚構>と<現実>が溶け合う世界。そこではあらゆる存在が、魔術的な振る舞いをするようになるだろう。それは事事無碍(じじむげ)として包括され、自然を構築し、寂びたプロセスの中に美を見出す。

なるほど。
難解ですけど、あれこれ、びっくり満載の本でした。